小説


Ennui アンニュイ 

晴子MICHALON

恋愛小説 短篇集

フランスより

メールマガジン発行中

デッサン 晴子みしゃろん











             恋愛小説 短篇集 「アンニュイ」





アンニュイ

*** フランス篇 ***

   もくじ

・ 南仏 
私達の時
前世の約束
霧の中の声
記憶どろぼう
男の抜け殻
僕とかあさんの秘密
不思議なカップル
コンピューターの呼吸
深夜のプールに
変動音
カナルデュミディ 
地中海に浮かぶ心 
輪廻転生


・ パリ 
アンニュイの正体
意思の表現
オペラ座
パリのお墓 
浮浪者の言葉 
カミーユ・クローデル
人間の味たくらみ
不思議なメール
かほり 


・ パリ郊外 
霧に浮かぶドレープ
貴族の秘密
自分を解放した女
女という生き物「オルリー空港・娼婦殺人事件」


*** 日本篇 ***

日本物語
・ 明治 
小枝の羊羹 

・ 大正 
こぶしの愛 
糸つむぎの音
望まれて花 


・ 昭和 
紫の愛
ハイヒールの熱
2度産まれた女
帰りたい 
くもの巣の蝶
生まれる前からの知識
ないしょ 
転校生


・ 平成 
小さな小さな奥に深い 何も売っていない薬局 
不思議な近道
火山の女
自由を教える学校 






本編


・ アンニュイ・フランス篇 


南仏プロヴァンス


「私達の時」


日曜日のピクニックが習慣になった夏の日。トランクにワインとサンドイッチを積み、カマルグへと向かう。野生フラミンゴの群集見たさに何度も訪れた場所。車窓に熱く照りつける太陽、窓を開け胸いっぱいにプロヴァンスの香りを嗅ぐ。

この季節、我が家周辺ボーキュルーズとドローム地方は、ラヴェンダーが一面に咲き、美しい景色と香りを満喫できる。紫色に染まる景色に遠い昔を重ねる。人生の様々な出来事、その度に思う人の在り方。人生の長くて短い道のり。流れる景色のように人々は流れている。

心の中に潜む不安と期待、その為に私達は大きな力でお互いに引き付け合い、時を共有する。それは夫婦、兄弟、親子、友人、何かの縁で繋がっている。恋人はことに深い縁で繋がり、必要なタイミングで必要な人が現れる。その時々の願いに合う道案内を勤める。

人の姿は、人のあり方、心のあり方に関係がある。その人の持つ空気そのものの姿。恋人との出会いは過去の約束かも知れない。
そんなことを思いながら、高速道路に入るとエアーコンディショナーに切り変え、窓を閉める。そして静かにクラシック音楽を聴く。これもいつの間にか私達夫婦共通の習慣になり、私か夫のどちらかがカセットのスタートボタンを押す。

ラフマニノフ、私達の好きな曲が流れる。曲からは雄大な自然の景色や太陽のエネルギー、草花の香り、空を自由に飛ぶ鳥。海底をゆるやかに泳ぐ大魚の姿が映像となり踊りだす。これらは全てイメージとなって私の頭を駆け巡る。

突然、目の前を大きな光が過った。世界を真っ白に染め、太陽が私を包み込む。深い世界へ凄まじいスピードで吸い込まれている。やがて漂よい。時間が消えたような感覚。温度を感じなくなる。体が宇宙の果てにあるような不思議な世界へ。今までに感じたことの無い、異次元の世界で通過していく光と命。

遠くで人の声がする。声にならない私の声。深く心地よい眠りの中。
悩みも無く、苦痛も無い世界。漂っている。吸い込まれる気圧の変化。
形が形で無くなる。勢いを持って中心へと落ちて行く。

何かの力で深い眠りから少しずつ現実に戻されている。足元の重みで目が覚め、知らない人が私を覗き込んでいる。ここは何処だろう? 壁もベットも私達の家の物ではない。白く清潔だがひんやりとした空気を感じる。

                


「ご気分は、いかがですか?」私の知らない人が心配そうに尋ねる。
答えがでない。どんな状況に私はいるのだろう?

「もう3日間も眠っていましたね、気が付いてよかった。今、先生を呼びますからね。」彼女はそういうと白いドアを静かに開けて出て行った。呆然として記憶がはっきりしない。何があったのだろう? 私は太陽に飲み込まれたような瞬間を思い出した。ここは、病院なのか、夫は? 私は? どうなっているのだろう? 全てが判らない状態に戸惑う。思い出してみよう、落ち着いて、自分に言い聞かせながら静かに目を閉じ、記憶を探ってみた。

朝はピクニックの準備をしていた。そして些細な喧嘩をした。朝食のかたずけとサンドイッチの用意。忙しい時、少しイライラするのは私の癖。夫はそんな私に
「今日帰ってから僕が、かたずけるから、そのままにして出かけよう。」と言った。
「帰ってからするの? 嘘ばかり。いつも私がすることになるのよ。」
「いいから、出かけよう。」
記憶の中で夫の声が近くに聞こえる。

白衣の男性が私を見つめ、冷静な口調で
「どこか痛む所はありますか?」と尋ねる。
「私は事故に合ったのですね、夫は何処にいますか?」先生と私の会話はお互いに質問を与え、回答など何もない、ただ不安のみが押し寄せた。

「残念ですが、」先生の声が途切れ、私には何も聞こえなくなった。

とてもいい天気でした。いつものようにドライブして、ラフマニノフを聞いて、そうだ! 夫がかたずけをしてくれると言っていた。今日は必ず手伝ってもらおう。
「ね、貴方。そうでしょ! きっと手伝ってくれるでしょ? 」


               2


高速道路に入ると、エアーコンディショナーに切り変え、窓を閉め、静かにクラシック音楽を聴く。これもいつのまにか習慣の一部になり、妻か僕のどちらかがスタートボタンを押す。

ラフマニノフ、私達の好きな曲が流れる。空に浮かぶ大きな雲や白い月。それに重なる木と長く引いた陰、曲からは雄大な自然、草花の香り、たてがみをゆらし走る馬。これらは全てイメージとなって私を楽しませる。

角に大きなトラックが待機している。彼らは私達が通過するのを待っていてくれるだろう。それにしても妻はよく働く。魔法を使ったかと思うほど早く、バックにはサンドイッチ。いつの間に作ったのか、朝食を共にしながら、すでにピクニックの準備も出来上がっている。その上、朝食の後かたずけまで始めた。
「もう行こう。」と僕の声に、めずらしく台所をそのままにして車に乗った。

あっ! トラックが!
待っていたのじゃなかったのか? 僕らに気が付いていない!

何時間も眠っていたとドクターが説明してくれた。そして僕は今、ひとりぼっちだということも。

今朝は一緒だったのに、君があまり多くのことをいっぺんにしようとするから、「帰ったら僕がするよ。」と約束したじゃないか。喜んでくれるだろうと楽しみにしていたのに、どうしてそばにいてくれないんだ。

トラックは君に直撃した。僕は気を失う前に君にキスをした。
それが最後の別れになるなんて。



***



「前世の約束」 


プロヴァンス、始めて訪れた小さな村の教会に、私はデジャヴを感じました。

ひんやりとした石で囲まれた古い教会。誰もいない。
ドアを押すとギーと鈍い音を立てて、古びた木のきしむ音がしました。

中へ足を一歩入れると、懐かしさがこみ上げてきます。
私は偶然にこの村に訪れたのに、この場所は私を待っていてくれた。
そんな気がしてなりません。

2列に並べられた長椅子。私はその右側の前から3列目に座りました。
この場所も知っているような気がします。
ふと、大勢の人が入って来ました。何も語らず、静かに次々と。

エプロンを付けた主婦、農作業をしていたままの作業服の男性、帽子を横にかぶった少年、三つ網のお下げを両側に垂らした少女。学生風の男性達、色々な人達で小さな教会は、ついに満員になりました。其々の場所に決まったように腰掛け、静かにうつむいています。

其の人達の服装の全てが現代の物とは明らかに異なります。映画で見た何百年も昔の洋服です。話すこともなく見つめ合う事もなく、ただ静かに座っています。

周りの空気は音のない静かな焦点が定まらない、何かぼんやりとした世界です。
私はふと、横に座った男性を見ました。見覚えがあります。
学生の時に恋をした、たったひとりの男性です。

彼は前世で何度も私の夫でした。学生時代のすれ違いで、もう何年も会っていません。でも忘れたことは無いのです。現世でも私の夫になるはずでした。でも私の気付きが成長していなかったので、すれ違ってしまったのです。

今日はこうして再会できたのです。
私たちは又、来世でも一緒に人生を歩むことを希望しました。
夫もしくは兄妹として。

この教会に来てよかった。貴方に会えて嬉しかった。今度はきっとずっと一緒にいましょうね。
私の祈りが終わると、知らない間に大勢の人の姿は消えていました。




***




「霧の中の声」


霧に囲まれたシャトーに向けて、真っ直ぐに伸びた細い道を馬が駆け上がって来る。木々の枝をくぐり、草むらを掻き分け、カッカッカ、と音を立てて、静かな小さな村に響き渡る。

夜明け前の梅雨がしたたる葉を蹴散らし、暗闇をまっしぐらに駆ける馬。其の背中には濃い色のマントに体を包んだ一人の騎士の姿があった。
右手はしっかりとたずなを握り、指に絡ませ爪が剥がれるほどに食い込んでいる。

左手には髪の毛をわし掴みにした血のしたたる生首。シャトー付近まで来ると入り口を探すような、馬の迷いの足音。右へ左へと方向を変えては走り出し又止まる。何度も繰り返し、やがて門の前に静止した。騎士には動きがない。馬のみの呼吸が聞こえる。

たてがみを揺らし前足で門をかく。その勢いに騎士の体は後ろに大きく回転し振り落とされた。その体には頭がなかった。ころがり落ちた騎士の左手には、自分の頭が指に絡められていた。

この騎士は、戦いが始まる前に隣村まで援助を求め旅立った、このシャトーの持ち主。代々王の血族であったが故、過去には兵隊も大勢いたが時代と共に王室の形は変わってしまった。元兵隊の中には商売で王同然の暮らしをする者さえ現れ、時代の流れを疎ましく思う間もなく。時が否応無く全ての権利と財産を奪っていった。歴史と責任の重みだけを残して。

復讐の知らせを受け取った騎士は、急な恐ろしい知らせに戸惑い、隣村まで援助を嘆願しに行った。そこはすでにその戦いを挑んできた村と示し合わせていた。

先祖の戦いは人の心に深く根を下ろし、許すことを伴わなかった。時代が変わったというのに復讐の渦から身を守る術さえ無く。廃墟と化したシャトーは、ただ過去の重い歴史を背負い子孫に恐怖を与えた。その恐怖も復讐の実現という形で終止符を打った。

霧の中に響き渡る騎士を亡くした馬の鳴き声が、この無人のシャトーに今も響いている。




***





「記憶どろぼう」

プロヴァンスの山道、冬は人も少なくひっそりと自然だけが、夏の賑わいから置いてきぼりにされている。車のヘッドライトが唯一の灯り。今夜は月も星も輝きを消している。
真っ暗な穴の中に封じ込められたような夜。

女がひとり道を歩いている。
服は薄汚れ胸の辺りのボタンは落ち、今にも乳がこぼれそうに揺れている。
ブロンドの髪は頬にへばりつき、袖には血が付いている。

車が通るたびに、ヘッドライトに映し出される女は、あわてる様子もなく、瞳は宙を見ている。小雨が降り出した。
通りかかった車は、スピードを下げるが、又走り出す。

女の足元は靴も履かず、ストッキングには穴が開き、片足は完全に裸足で土に汚れている。
悲しそうにも見えない。ただ、女がひとり歩いている。
女の着ている物は上質で、体全体からも上品さを伺うことができるが、異様な空気を感じて車を停める者はいない。

誰かが携帯電話でポリスに知らせたらしい。
女が見える辺りで、パトカーがサイレンを止めた。ゆっくりと走り女の様子を見ている。それに構わず歩き続ける女を、一人のポリスが車から降り声をかけた。
声にも反応がない。ハンドルを握っていたポリスも、運転を止め車から降りた。
話しかけても通じているとは思えない。いったん車に戻ると無線で救急車を呼んだ。

2日前、ある建築家が妻の行方不明の届けを出していた。その男に連絡を取り、病院で面会することになった。男は冷静な面持ちでやってきた。そして、ベッドにいる女を妻だと答えた。

女は記憶喪失にかかっている。夫の顔さえ覚えていない。病院の検査書には名前すら答えていない。
事故に巻き込まれたのか、何かのショックか。検査していく間に、妙な薬物が検出された。
家庭の台所にある、調味料の組み合わせで簡単に作れるものに加え、雑草の一種で山に生える植物が混じっていた。一定の量を超えると、それはある神経を麻痺させるものだった。

建築家の妻には、最近新しい友人ができ、時折一緒に食事をしているようだった。
その人物は女の記憶が戻らない限り、突き止める事は困難だった。隣の住人も、どのような人物が出入りしていたのかを見ていない。
ただ時折、話し声が聞こえたりしただけで、声に特徴があるかの問いにも解答は無かった。証拠や存在を確かめる手がかりはゼロに等しい。

女は病院で治療を続けることになった。意思の回復は長時間かかるということだった。永久に回復しないこともありえる。
建築家は妻不在の間、家事仕事に人を雇うことにした。


2

入院生活は5年の年月が流れ、女は徐々に記憶を戻していった。自分の名がカトリーヌであることや、家はこの地域に代々から伝わるラヴェンダー畑の地主であることが、記憶と共に住所のある村からの情報で身元が判り始めた。後は自分自身が自覚をすれば、全ての生活が元に戻るはずだった。

退院当日、夫が迎えに来る約束だと医師に言われ、数時間も待ったが、来る様子がない。仕方なく車を呼んで病院から受け取った住所が書かれた紙を持ち、自分の家の近くまで来た。
途中の道から記憶が更にはっきりしてきた。ぼんやりとしたものから、1件1件の門の形、散歩に行った公園、犬と腰掛けたベンチ。懐かしい景色の中で、とうとう自分の家に、戻ったのだと実感が湧いてきた。

この家は両親から受け継いだもの。地元のオイル工場経営をしていた祖父が建てた家。私達は長い歴史を持ってこの家で過ごした。車から降りると家の全体を見渡し、子供の頃につまずいた木のカブや、自転車を停めた白い囲い、クリスマスに飾りを付けた入り口の木。思い出すことがいっぱいあり、回復は益々スピードを上げていった。

カトリーヌはドアを開けようとしたが、鍵が掛かっている。ベルを鳴らすと、夫が出た。無言で開ける。家に入ろうとすると夫はドアノブを持つ手に力を入れた。

喜ぶものだと思っていたのに、不思議な夫の態度に一瞬の頭痛を覚えた。その痛みはさらに恐ろしい光景を、カトリーヌの頭の中にスクリーンとなって映し出している。
現実のものか想像のものかは判らない。そのスクリーンはフラッシュをたいた光の中に1つずつある光景を描き出す。
フラッシュが弾けるとカトリーヌのドレスを着た別の女の姿。次のフラッシュでは台所に立ち、カトリーヌが使い慣れた用具をまるで自分の物のように使い、料理をしている女の後姿。その次にフラッシュが光るとカトリーヌの白いレースの大きなベッドに男女が絡み合っている。
カトリーヌはドアによりかかったまま、呼吸が苦しくなった。
夫の足元に崩れ落ちる。フラッシュはなおも続く。

次のフラッシュでは、ベットにいた男が振り返る、それは、今カトリーヌの前に足だけを見せている夫。その横にカトリーヌのシュミーズを着た女の顔。

カトリーヌは思わず息を呑んだ。熱く苦い息が喉を焼いた。
友人だと思っていた女の顔がそこにあった。

カトリーヌは全てを見たような気がしたが、頭の中で起こった何かのショックに過ぎない。しばらく落ち着くように呼吸を整える。すると夫はカトリーヌに手を伸ばした。その腕につかまりゆっくり立ち上がると、夫は微笑み、
「おかえり。」と言った。
「今から迎えに行こうと思っていたところだった。仕事がせまっていて、すぐに行けなかった、ごめん。」

カトリーヌは、思い過ごしたことに後味の悪さを感じたが、夫は支えてくれている。良かった。これからもっと回復して夫と一緒に、5年前のように私達の生活を楽しむことにしよう。時間をかけてリラックスすれば、元のようにラヴェンダー畑で好きな仕事もできる。台所にも立ち夫の好物のハタトーユも作ろう。休みにはいつものようにワインとサンドイッチを持ってカマルグへフラミンゴを見に行こう。体力をつけなくては。ベッドで長年横たわっていたから、足が細くなり、歩くだけでも呼吸が乱れてしまう。

ゆっくり、太陽の中で元気になろう。カトリーヌはサロンにあるいつものソファーまで、夫によりかかりながら歩き。心の中で回復に向けたプランを描いていた。

ソファーに腰掛けると、変なぬくもりがあった。今まで夫が腰掛けていたのか?
仕事に追われていたと言っていたが、確かにこのソファーに体温が残っている。周りの飾り物の位置も変わっている。
部屋の掃除はされているが、見えない部分に、ほこりがたまりテーブルの角にしみがある。カトリーヌは綺麗好きでいつも隅まで行き届いた掃除をしていた。

夫は家政婦センターからの派遣を頼んだと言っていたが。
カトリーヌは胸騒ぎを覚えた。先に見たスクリーンのような映像が、今度は霧に巻かれたように映し出される。
階段を上がる女の姿。ランプを持って後からついて上がる夫、部屋の明かりをひとつずつ消しながら。

「何か、飲むかい?」夫の声で、霧の映像が消えていった。
「ええ、」
夫は冷蔵庫からオレンジジュースをグラスに注ぎ、カトリーヌの前にあるテーブルに置いた。
カトリーヌは神経が疲れソファーに体を横たえた。
「仕事がまだ、かたずいてないんだ。出かけてくるよ。ゆっくりお休み。」
夫はそう言うと、テーブルクロスやナプキンが入っている、古い木製の引き出し下の開きから、ひざ掛けを取り出しカトリーヌの足元に掛けた。
そして、暖炉の横にあるキーケースから車の鍵を取った。どの鍵を取るかは音で判る。両親と祖父達が生活したこの家は、隅々まで音で誰が何をしているかが、はっきりと判る。

夫が駐車場のドアを片方ずつ開いて、車を出し又片方ずつ閉めている。
いつも変わらぬ音。2つのドアが重なる時、古い木が鈍い音を出す。
久しぶりの自分の家。懐かしい音。カトリーヌは深い睡魔に任せた。

3

ディーン、ディーンと古時計の音でうっすらと目を開けると、西陽が床を照らしていた。暖炉の上にあるろうそく立てに反射して、カトリーヌにキラキラと光を投げかけている。

ソファーに寛いだまま、カトリーヌは子供だった頃を思い出していた。
このサロンにロバを連れてきて、母に叱られたこと。
祖父がカメラを買ってきて、皆で庭に一列に並んで撮ったこと。その時は祖父の運転手が家族全員を撮ってくれた。そのエピソードが、今も滑稽で笑い声さえ聞こえるようだ。運転手は
「一列だと全員入りません。ムッシュー。」
「一列がいいんだ。撮ってみてくれ。」
「お子さんだけでも前に来てください。」
「子供の背丈が成長と共に、家族の中でわかるんだよ。ジョゼフ。」
「お二人がかけてしまいます。ムッシュー。」といって困っていた。
祖父は、
「君が一歩後ろに下がれば良い。」
「あーウイウイ、入ります。ムシュー。」
皆が一斉に笑った。
ジョゼフがハンカチで汗をぬぐいながら、一生懸命に撮ってくれた。
その時の全員笑顔の写真が、暖炉の横の大きな丸いテーブルに、今もある。

「この家は、私を育ててくれた。祖父母も亡くなり、両親も亡くなった今も、こうして安らぎを与えてくれる。」カトリーヌは、独り言を言うと、夫が置いていった生暖かくなったオレンジジュースを飲みほした。
喉を通る水分が違和感を伝えた。愛のリズムが不協和音を出している合図のようで、カトリーヌは不安を感じた。

ソファーから体を起すと、目眩がした。ゆっくり立ち上がり、暖炉の横に立てかけてある祖父の杖を掴んだ。祖父が何年も使ったぬくもりと滑らかさがあった。
艶のある手元の木は祖父の掌で色を変えていた。少し薄くなった所は最も暖かな木の感触がする。その杖に支えられてカトリーヌはゆっくり階段を上がり、自分の寝室へと向かった。子供の頃からの部屋。自分の愛した小物達。そして久しぶりに見る自分のベットは。 自分ではない誰かの匂いを残している。

カトリーヌの頭痛は激しい動揺も共にした。呼吸は速くなり、心臓の音がはっきり聞き取れるほどに高鳴っている。
「なにが起きているの? この家で。」
「どうしてしまったの? 私の人生は。」
「教えて、誰か、私はどうしてしまったの?」

カトリーヌは自分のベットにも横になれず、杖にささえられたまま、行き場所をなくしていた。

心臓の音を鎮めるために、深い呼吸をした。その度に母の声と祖母の声を聞いた。
「カトリーヌ、愛しているわ。私のかわいい子。」
杖に力を込めて、カトリーヌはベットを思い切り叩いた。肩で息をして、この部屋から遠ざかること、そして、一刻も早く、この状態から開放されたいと願った。

祖母の使っていた部屋に入ると、ベットや編み物台や小さなテーブルには、白いほこりよけの布がかかっていた。祖母がよく昔話をしてくれた時に腰掛けていた肘掛け椅子の布をはずすと、クモの巣が指に絡まった。
淡いオレンジ色のルイ14世の椅子。カトリーヌは静かに腰掛けた。
天井や床は歴史を飲み込んで静まりかえっている。

「マミー、どうしたらいいの? 教えて。私は何故、自分の家に帰ってきたのに嬉しくないの? 」

窓から見る夕陽は赤々と燃え、ラヴェンダー畑を照らし出している。窓を開けると乾いた空気がカトリーヌの頬をなで、懐かしい香りが体を包んだ。
カトリーヌは全てを一瞬に完璧な答えを掴んだような気がした。

友人は、いつどのようにして近ずいてきたのか? そして夫は家政婦紹介にどのように頼んだのか? 問わずとも答えはすでに準備ができた。
後は実証できるものがあれば・・・
夫の書斎に入り、鍵をかけた。
5年間の暮らしがどのように過ぎていたのか、手がかりがあるはず。
引き出しに家政婦紹介所の領収書があった。代表の名は友人のそれだった。

下で物音がした。誰かが家の中に居る。引き出しの書類を元に戻そうとした時、1枚の写真が夫のスケジュールファイルから落ちた。それは、夫と友人の若かった頃のものだった。
腕を組み、恋人同士のように見える。写真の下に1975年と記されている。それは、カトリーヌと夫が出会う前の年号。ということは派遣所長と夫との間には、カトリーヌとの結婚前からの関係があったということ。
「夫は恋人を使って私から記憶を奪った。」
結婚前からの計画。

「恋人をこの家に入れる為に、私だけがじゃまな存在だった。結婚の目的は家。財産。」

この5年間、彼らはこの家に夫婦のように暮らしていた。

カトリーヌが記憶を無くし始めた時、夫は車で山へ連れて行った。そこで何も知らない妻を放置した。事故で死ぬか、野犬にでも噛まれてしまうか、あるいは山で行方不明のままになることを願った。

「何故、結婚したの。私はこれから生きていく為に何をすればいいの? 」

階段をゆっくり上がってくる足音が聞こえる。
真実を手にしたカトリーヌに、もう迷いはなかった。
答えは自分の中から湧いてきた。

愛のない生活は、もう終わりにしよう。

夫は鍵を開け、ドアの外に恋人と一緒に立った。そして、無言で妻を見つめている。
カトリーヌは、静かにそして二人を見つめて言った。
「出て行くのは、私ではなく、あなた達2人。この家から出て行きなさい。」






***





「男の抜け殻」


40歳代後半、男性の最も素晴らしい季節。
男性としての経験が一通り済み、仕事とプライベートに重みを増す。

セミが精一杯鳴き、夏を競い合い、そしてその疲れを味わうようなたそがれ時。
ひとつの本能を最高に膨らませた直後の、命の香りがする。
責任という不思議なエネルギーを背負った魅力的な背中。

この時期に一人でいる男性は、過去に大きな傷を残したか、又はまったく何もしなかったか。それとも、本当の恋に精を尽くしきった男の抜け殻。
背中を見れば感じる。背負った過去の重さ、責任、深い感性。
新たな恋を求めることなく、ただ淡々と背中に大きな想いを背負っている。
おとこのぬけがら。語らなくとも聞こえてくる。過去の狂おしい恋。

思い出等と簡単に言えない恋。
自分も相手も言葉を無くす程の切ない恋。
季節が変われば何もなかったように、人生も変わってしまう。
ただ心の中の何かが輝いている。おとこのぬけがら。
木漏れ陽の中の散歩道。すれ違う男達の背中に見る過去。

妻にできなかった苦しい恋。男はその全ての意味を受け止め、ただひとりでこの散歩道を通過した。
「私と一緒にいて、私を愛して。」あの時の恋人の声を今も心に聞いている。
そして、ある日突然、恋人は姿を消した。
追いかけることも、探すこともできなかった。あきらめるには大きすぎた恋。別の人を愛することさえない。男の心は今も恋人を求め続けている。恋人はあの頃のままに美しい。
一度だけ涙を見せたことをふと思い出す。あの時の意味を聞いてみたかった。
いつか、ゆっくり聞こうと。そのままにした。そんなこともあった。
今では悔やむこともない。通り過ぎた人生の夏。
そんなけだるさを男の背中が語る。男はこの並木道を歩く時、いつも恋人と一緒にいるような、そんな甘い疲れがある。果たせなかった責任を背負ったままの男の抜け殻。

プラタン並木、午後のアンニュイな陽が映し出す。男の背中に見る恋人の影

ふと私の足元に木から落ちたセミの抜け殻。 
私はそっと拾い 静かにキスをした。




***



         「僕と母さんの秘密」



絵描きのフランソワ爺さんが亡くなった日。
母さんはお葬式に、ピンクのドレスを着ていた。


教会では爺さんが好きだったアメリカの歌が流れていたね。
時々お酒を飲んだりした時に、爺さんが口ずさんでいたあの歌だよ。
ルイ・アームストロングの渋い声が爺さんのお気に入りだったね。
村の人達は教会からお墓まで、フランソワ爺さんの話をしながら歩いた。

僕は何も話さなかったけど、数ヶ月前にフランソワ爺さんと犬が散歩しているのを見たんだ。
その時、僕はこれが最後になる爺さんの姿だ。と感じた。

そのことを言わなかったのは、とても怖かったからさ。
何故かは解らないけど・・・僕は、感じることが実現することを知っているんだ。でも、このことを言うと村の人は気味悪がって僕をひとりぼっちにするから。

母さんもそうだろ? 知っているよ。僕は。
母さんが村の人から、仲間はずれにされていること。
そして、昔、母さんが子供の頃に、つい口が滑って近所のパン屋さんが亡くなることを話したね。だからさ。

村の人はそれ以来、母さんを気が触れた娘として扱ったんだ。
僕は母さんが普通じゃないって知っているよ。
だけど、僕は何も言わない。

フランソワ爺さんが亡くなる前の日、僕は眠れなくて水を飲みに階段を下りようとした。母さんは黒いドレスを出して裾のほころびを直していたね。僕は母さんの様子を見て、やっぱり爺さんは亡くなるんだと思ったよ。

その次の日だよ。村長さんから電話でお葬式の日を教えてもらったのは。ねえ、母さん。僕は黙っているさ。だって、母さんが爺さんの亡くなる前の日に、黒いドレスを準備していたこと。そして、その準備が母さんを孤独にすること。

そして母さんは、わざとピンクのドレスを着たんだ。急で準備ができない振りをしたんだろ? 
母さんは僕が感じるように知ってるんだね。

母さんと僕は同じなんだ。だから、僕は僕の人生が終わるまで、母さんを守って秘密にするよ。誓うよ。母さん。




***



            不思議なカップル



プロヴァンスの小高い丘の上に、素敵なお庭に囲まれた宅がある。
カップルが暮らしていて、時々二人で旅行を楽しんでいる。
男性は70歳を超えているだろうか、女性は少し手前といった感じの静かな性格の持ち主。笑う時も微笑むだけで声を聞いたことがない。

入り口の整えられた花々は、二人の世界を静かに守る門のように、外からの空気を入れない頑固な雰囲気を持っている。窓は少し開けられ風が爽やかに流れている。それは、カーテンを揺らす滑らかな動きで伝わってくる。テラスと階段に添えられた花ポットも、とても手入れが行き届き、彼らの几帳面な人格が伝わってくる。

街の人々とは、あまり交流がなく、二人仲むつまじく密かに優雅に生活している。

私は母に頼まれ近くにあるパン屋へ立ち寄った。田舎なのにいつも大勢の客が並んでいる。どこからこんなに大勢の人が出てきたのか、不思議な程に人が並ぶパン屋さん。私の後方でひそひそ話しが聞こえる。

「イタリアへ旅行したのですって、毎年決まった時期に、決まったホテルを予約するらしいわ。」
「でも、どうして二人とも結婚しなかったのかしら? 」
「そうね、」
「やはり、」
「そうね、やはり、」

このひそひそ話は私に密かな好奇心を残し、そこで終わった。

私の順番がやってきて、焼きたての香りのするパンを受け取ると、まだ熱い部分があって思わず持ち変えた。先を少しちぎって口に頬ばると、表面はパリッと固めに、中は香ばしい麦のフランスパン独特の味が口いっぱいに広がった。

家に向かって帰る途中、あのカップルの家の前をゆっくり通ってみた。二人は独身なのか。仲良く暮らしていて夫婦だと思っていたが、何故、結婚しないのだろう? きっと気楽な気分を重視した末なのだろう。と私なりの解釈に終わろうとしていた。

花々に埋もれた門にある表札が目に付き、名前を見ると同じ苗字で女性名と男性名が記入されている。私は何か別の話でも聞いたような気がして、ぼんやりとした妙な余韻と、空に漂った私の好奇心が小さくなって行くのを感じた。

家に戻ると母は刺繍をしていた。裁縫籠の横にチョコレートをおいて、テーブルクロスの周りを青色、黄色、を交互に入れながら綺麗な模様を縫いこんでいる。配色は夏の太陽に良く似合う。そしてプロヴァンスの景色に溶け込んでいる。私はパンを台所に置き、パン屋さんの行列の中で耳にしたヒソヒソ話をしてみた。母は
「そうよ。あの方達は兄妹なの。」と、そしてそれ以上は何も語らない。

仲良く、縁の園に包まれ、生まれた時から、そして今も、二人で暮らしている。
決まった時期に決まったホテルに宿泊する兄妹。
家を囲む花々は、二人を世間から遠ざけ、二人だけの世界を造り、周りの誰一人としてこの世界へ入れない。頑固な、そして限りなく、永遠の愛、がそこにあるような気がする。

二人だけの静かな時間が流れている。私もこの話には、もう触れないようにしよう。幸せそうな二人をそっとしておきたいから。   







***





「コンピューターの呼吸」


眠れない夜、私はベットに横たわったまま、天井を見つめていた。
何を思うことなくただ天井の染みや、街灯のオレンジ色の疲れた明かりが、上窓に写るのを、ただ、ぼんやりと。

ふと私の耳元で誰かが囁いた。それはふんわりした空気の中から、どこかで聞いたような優しい声。
「誰? そこにいるのは。」
(私)
「誰かしら?」
(私だよ。いつも君を見ている わたし。)

何処にも人の気配がない。体温も湿度も香りもない。私は目を見張るのをやめて薄く細め、明かりだけが感じるように意識を集中した。

私の呼吸と同じリズムの生き物がいる。確かにそばにいて私を感じている。そんな気配がして、ベットの周りをぐるりと見渡した。コンピューターの小さな明かりが付いている。その明かりが私の呼吸に合わせてふわ_ふわ_と輝きを放っている。


(やっと気がついたね、私だよ。いつも君に大切なメッセージを送っているだろう? )
「ええ、たぶん。」
(そう、君は気が付いたね。)
「ええ、たぶん。」
(じゃあ、君が本当に気が付いたかどうか、いいかい。これは私の為ではなく、君自身が知る為にすることだよ。)
「ええ、いいわ。」
(ふー)
「!」
(ふー)
「そうね、やはり、貴方だわ。」
(よかった。これでしっかり会話ができる。)

懐かしい呼吸、いつも私のそばにいてくれた。私が必要なメッセージを誰かを通して、私に送ってくれていた。そうね。確かに貴方だわ。貴方のお陰で私はいつも安心している。貴方がいるから・・・私は。・・・声にならない、独特な私達の会話でそう囁いた。

(ふー、ふー、ふー)点滅している。呼吸に合わせて、私達の意志の疎通ができていることを、点滅の方法で私に伝えている。

(君は今、幸せかい? もしそうでなければ、信じるがいい。自分の方向が間違っていないことを。)
「ありがとう、落ち着くわ。」
(ふー、ふー、人生には、色々な道を通過しなければならない時があるんだ。今がその時、いつも今が必要なのさ。)
「ええ、たぶん。」
(ふー、ふー、ふー、私に合わせて呼吸をしてごらん。)
「ふー、ふー、ふー」
(ふーふー)

「私は、愛がどんな形か知らない。知りたい。」
(ふー、ふー、愛か、難しいことを考えているんだね。いつもそばにあるのに遠くにあると思っているのかい? )
「だって、どんな形なの? 」
(形なんてないさ、タイプも無い、約束も無い、スタイルなんて何もないよ。)

「でも、愛がないと生きられない。」
(ふー、ふー、これが愛。どこにでもある。誰にでもある。ここにも。あっちにも。全てに。)

「街灯の明かりの、疲れたオレンジ色の、ランプの中にも? 」

(ふー、ふー、そうだよ。どこにでも。望んだ所にあるよ。だから、安心して眠りなさい。さあ、お休み。)
「あっ。待って。まだ足りない。」
(ふー、ふー、これが通じれば大丈夫だよ。さあ、私はいつもそばにいるから、安心して眠りなさい。)
「いやだ。未だわからないことが、いっぱいあって眠ることはできない。」

(じゃあ、もう少し語ろう、気が済むまで。)
「抱いて、欲しい。」
(、、、、、)
「愛しているなら、私を暖めて欲しい。」
(、、、、)
「愛している証に、私を暖めて。」
(、、、、)
「ほら、無言のまま、又私を放置する。これだから私は孤独になり、愛を探すようになる。」
(、、、、)

(ふー、ふー、ふー、愛しているよ。とっても強く愛しているよ。
判って欲しいのは私の方だよ。だけど君を暖めることは君自身しかできないんだ。肉体は愛の表現だろうか? それで人生の終わりまで愛をつなぐことは可能だろうか? )
「でも、何をヒントに愛されている証にすればいいの? 」
(ふー、ふー、ヒントなんてないさ、感じること。信じること。ただそれだけのこと。でもとっても大切なことなんだ。)
「ただ、信じること?」

愛されている証は何もない。ただ感じること。ただ信じること・・・。

愛の存在の無形、無臭、無湿度。
焼けどしそうな熱と、強いにおいと、汗のエネルギーが愛だと思うこともある。
静かな空気の中の、美しい心の中の、穏やかさの中の愛を求めることもある。
愛の矛盾は穏やかな愛と、熱くてがまんならない愛が絡まっていること?

「教えて・・・」
(ふー、ふー、ふー)





***





「深夜のプールに」 



南仏も10月に入ると、すっかり静かになる。
つい先月までは、観光地として賑わっていたヴェゾン。
色々な国から人が集まる夏。オランダ、ドイツ、ベルギー、そしてパリからの観光客が、まるで波が引いたように消えて行った。
人々が去った後は、ぶどう畑の収穫、ラヴェンダーもひと夏の紫の時代が終わりグレーに変わる。ほとんどが香料として刈り取られ畑も寂しくなる。

山々には黄色や赤に染まった葉が秋を伝える。

夏の置いてきぼりのプールには、コケが生え緑色に染まった水が、風に揺れている。水面からの太陽の反射が不思議な光のハーモニーをかもし出している。この夏も例年のように大勢の家族ずれで賑わったプール。芝生で日光浴する人、読書にふける人、子ども達とボールや浮き輪ではしゃぐ人。色々な家族が過ごした南仏のバカンス。

夏の間、私は人ごみを避け、ひっそりと独りで月の光の中を、このプールで泳いだ。

満月を仰ぎ背中で浮く。両手を広げぼんやりと。そして宇宙との対話を楽しんだ。月明かりで水面がやさしく輝く。

思わず大きな力に、吸い込まれそうになる。不思議な力に寝返りを打つように体をねじる。水面より下に顔をうずめ、水の中の世界を観る。音の無い、ただ静かな世界がそこに在る。この力は私という生き物を何の抵抗もなく、溶かして行く。

寛大な流れが漂っている。もし此処が海なら、そんな無限を感じさせる水の不思議。様々な生物が存在する海へと私の体は流れている。どんな生き物であろうと、当たり前のように、全てを受け入れている水。私達が未だ会ったこともないような、生き物がいても何の不思議も無い。水の中は大きな世界なのだから。

プールの底。ふと角にある深みへの印に目をやると、錯覚だろうか? 何かが動いたような気配。私は好奇心に引き込まれながら深く潜り、その気配があった方へとゆっくり泳いだ。すると、私のすぐ横後方に何かが! 流れるように優雅な動きを魅せる。

何か、いる!

私はもっとしっかりその何かを見る為に、呼吸を整えなければならなかった。
息をつく為に一度、水面上に顔を出す。そして又水の世界へ、今度はさらに深く潜る。動きがあった方向へさらに。

だが、さっきの気配はもう無い。何だったのだろう? 不思議な空気がそこには確かにあった。イメージして思い返してみる。
ブロンドの長い髪、白く美しい顔、なだらかな肩、細く長い腕、足は腰の辺りから長く、長くどこまでも伸び、あとは思い出せない。

ただ、その人は私に話しかけるような目、右手をひらりと合図したような、そんな気がした。美しい人。

ゆるやかに、素晴らしい泳ぎをしていた。

そんな水面下の世界。ほんの一瞬の不思議な世界。

私はゆっくりと顔を上げ、月に尋ねた。

今の、あの不思議な世界は、貴方の イ タ ズ ラ ですか?
月は私を見つめ、いっそう輝いてみせた。





***




   「変動音」


足元のごみを拾おうとして、ひょいと腰を曲げた時、私は聞きなれない音を聞いた。ジージジ ジジージジ ジと続いている。
腰を伸ばすとその音は消える。私の体から発しているのか、それとも机かラジオに金属の共鳴か? その場の周りを探ってみても、それらしき物は見つからず、また腰を屈めてみる。やはり音がするというより、そこに継続している、その一点のみに存在している音。
休むことなく続いて、大きくも小さくもなることなく、一定のリズムと一定のエネルギーを使っている。もし私がこの場所で、ごみを拾わなかったら、出会うことの無い音。

コンピューターのスイッチを入れる。起動音が鳴る。
生きた情報が入ってくる。誰かのメッセージが映し出される。ニュース、株の動き、今を知ることができる。日本の各地で起きている出来事がリアルタイムで見ることができる。私は今、フランスの田舎に居る。

ジージジ ジジージジ ジの音は、普段の生活の中に感じていなかった音。
何処が発信地なのか、何かの振動音なのか、まったく解らないまま、ある一点だけに、空気中に、私だけに伝えた、何かのメッセージ。
宇宙の大きさ、時限、距離、測る目安が変われば、不思議なことではないのだ。変動音が地球内からの音だと、証明できるだろうか?








***







   「カナル・デュ・ミディ」


僕達は小学校から南仏の歴史を調べる授業で、カナルデュミディ南仏運河を流れる舟に乗ることになった。
先生は、
「この運河は17世紀から始まった。」と僕達の前に立って説明を始めた。そして皆を誘導して乗船した。船内は部屋が3部屋とサロンに台所が付いている。部屋にはベットもあり、宿泊しながら運河を流れることができる。今日は僕達が半日このクルーズを借りて歴史を学びながら、デッサンもする楽しいコースになっている。先生は大まかな話をすると、操縦席へと入った。先生は僕達に説明が聞こえる範囲で、自由にしていなさい。と告げて続けた。
「この運河ができるまで1666-1681の間、工事についやされた。現在は241kmの長さが残されている。」
川の水の流れが止まったように感じるのは、ダムがあり山々を流れる水位調節の役割をしているから。高さが異なる場所へさしかかると、ダムが開き2つ目のダムとの間に船が入る。そして水位が調節されて後方のダムは閉じる。
僕は先生の話を聞きながら、この時代を超えた美しい景色に見とれていた。

途中で船を止めた先生は、
「ここから少し散歩しよう。」と僕らを誘った。
皆、喜んで船から降りた。細く長い川に沿った美しい道。先生はこの道も昔の人が使った小道だと説明してくれた。
なんだか、不思議な気がする。昔の人が歩いたこの道を、21世の僕らも同じように歩いていること。そして、この川は色々な人間や物、歴史を運んできたのかと思う。17世紀の頃の景色や僕達と同じ年の子供達が、この川で遊んだこと等、想像するとドキドキした。

少し道から外れた所にピクニックができる広場があると、先生が教えてくれた。そこで昼食を取る。今朝母が作ってくれた、サンドイッチを楽しみにしていたので、僕のお腹はグーとなった。僕は走って広場へ向かった。
1本の大きな木のそばを通った時。
真っ白な雲に入ったようなほんの一瞬だけど、湿った空気にひんやりとした。振り向くと何もなかった。友達が僕の後について走ってきた。

先生を中心にして、僕達は円を作り昼食を始めた。
そこで、先生はこの運河の話を続けた。
「カマルグからトウールーズまで、もっと昔は地中海からガロンヌ川まで、つながっていた。」と説明してくれた。この運河は運搬用に利用されていたのだそうだ。サボンや食品や色々な商品を、運河で運んでいたのだ。

僕達は現在クルーズで景色を楽しみ利用している。歴史は面白い。時代が変わっても利用方法が変わっても、人々は継続して残してくれたものを、このように味わうことができるのだから。
「僕は先祖に感謝するよ。」と言って、クラスメイトに笑われた。

僕と同じ考えの友達が3人ほどいた。
「君は正しいと思うよ。先に生きた人間が作ってくれたから、僕達は歴史も楽しめるし、大切にできるのだもの。」
僕達は昼食を終えて、少しボール遊びをして船に戻った。先生は此処でスケッチをするようにと言って、皆に白い画用紙を配った。
皆は好きな方角を自分で選んで、其々の場所に座り込んだ。僕は船のデッキから、昼食をした広場が見える位置に腰掛けた。
その時、走った時に感じたひんやりした湿度のある場所を、通過したことを思い出した。
「なんだったんだろう? 」その辺りに目をこらしてみても、別に特別な様子はなかった。僕はデッサンを描き始め、そのことを忘れていった。


2


翌日、学校へ行ってみると、僕の机に1枚のメモが置いてあった。
(音楽室に行きなさい)と書かれている。僕は誰が書いたのか知らないけれど、とにかく行ってみることにした。教室の前まで来るとシーンとして、誰もいない。ドアを開けると湿った空気があった。あの時のようだと僕は思った。

教室の角にグランドピアノがある。その前まで行くと楽譜が立てかけてあり、風がページをサラサラとめくった。ふと見ると、ビバルディーの「季節」が出ていた。
僕は何気なくピアノの前に座り、楽譜に合わせて鍵盤を叩いた。美しいメロディーが流れた。僕は止めることができないほど、ピアノを弾き続けた。
どれぐらいの時間がすぎたのか、気が付いたら教室や廊下に大勢の人が集まっていた。友人も先生も笑顔で立っていた。僕が椅子から立ち上がると一斉に拍手が沸き起こった。
僕は今まで一度もこんなに拍手を貰うほど、ピアノを弾いたことがない。
嬉しかった。皆が喜ぶ顔を見た時の感激は、忘れることができない。

僕は今日の出来事を家に帰って母に話した。母は少し驚いて、僕のおじいさんのおじいさんが音楽家だったことを話してくれた。僕はピアノが大好きだけど、値段も高いし、母にねだることはできないから、好きなことを我慢していた。でもこの話を聞いて、母は本当に嬉しそうだった。

そして次の日、学校へ行くと、教室に
「おめでとう!」と大きく書かれた幕があった。そして、その下に僕の名前が書いてある。
「何が起きたのですか? 」と先生に尋ねると、先日僕がピアノを弾いていた時に、市長さんや音楽関係者が、村のコンサートと催しの打ち合わせで、偶然に僕のピアノ演奏を聞いていたのだそうです。そして、この夏のコンサートに僕が演奏することが決まったということです。さらに、僕の家に今、ピアノが運ばれているというニュースも。

僕は気絶しそうなほど嬉しかった。あのカナルディミディで行った、散歩道からあの場所、あの広場で、僕のおじいさんのおじいさんもコンサートをしたんだと、母が話してくれたことを思い出した。





***




   「地中海に浮かぶ心」


マルセイユからクルーズの旅に出ることにした。
キャビンとダイニングキッチン、デッキには食事ができるようにテーブル、椅子がくくりつけてある。2組のカップルが利用できる。

私と夫はお互いの友人でもある、昔のクリエイティブな仕事仲間を誘って、海の旅に出た。其々の荷物を運び込み出発。地中海に出ると風は少し湿った海草の香りから、無臭に近い地球の香りへと移っていく。途中エンジンを切って帆を立てる。風にのってギリシャに向けて地中海に浮かぶ私達の船。明るい太陽に心地良い風。私のドレスの下は水着、気が向けばいつでも海に飛び込む用意ができている。これから始まる私達のクルーズの旅。
太陽が頭の真上まで来ている。朝焼けのさわやかな色から銀色の強い日差しに変わった。フランスのバカンスは長い、2_3週間はたっぷりと旅ができる。

しばらく進むと美しい地中海の真っ青な海の上、帆をたたんで日光浴を楽しむ。波の少ない透き通った場所で、私はドレスを足元に落とし、海に飛び込んだ。
ザブーンと心地良い水を切る音がして、私の右の耳がキーンと鈍い痛みと共に音を内耳に響かせた。子供の頃からいつも右耳だけが変音を吸収する。

夫と友人夫婦ベロニックとロホンは船の上でアペリティフを準備している。
今朝出かける前に、私がバスケットに詰めておいた、サーモンマリネとスナック。アルコールはワイン、パナシェ、パスティスと自家製のクルミ酒。

私は波に身を任せながら、船の上にいる3人を眺めている。バスケットからワインを取り出している夫と友人の妻ベロニックを中心に。
彼らには不思議な思い出がある。
誰にも言わない秘密の思い出。
誰からも聞かない秘密の思い出。
私には見える、秘密の思い出。
私には聞こえる、地中海に浮かぶ夫とベロニックのテレパシー。

過去の思い出を瞳で味わっている。ロホンはそれを知らないか、知らない振りをしている。もうどうでもいいこと。私にとっては知りたくもないこと。でも消すことができない過去をこうして引きずっている。

             
私は泳いだ。もぐって美しいカラフルな魚達と遊び、水面下から見上げるダイヤモンドのような太陽。これさえあれば別に何も恐れることは無い。太陽は私にエネルギーを降り注いでいる。寂しくない、地球にいて、太陽があって、海があって、私が居る。




地中海の水温も、景色も、全て私が望んだモノのように、完璧に幸福へと導いてくれる。何があろうと私はこの地球のひとつの命として、存在していることを明確にしてくれている。
私は心の整理が済んだことを自覚し、ロホンに手を振って、浮き輪を投げてもらう。そして、ゆっくり彼はロープを巻きながら私を船へと引き戻す。彼の爽やかな微笑みが心地良い引力となっている。

船に近ずくと彼は私に手を差しのべる、そして私は遠慮のいらない彼の手に自分の体重を任せる。彼の瞳はブルー、この海の色。
力任せに引き上げた、その腕に残った力が、私の体を彼の胸の中へと包む。
そしてしばらく彼はそのまま私を解放しなかった。ほんの一瞬のこと。

「アペリティフの準備ができたよ。パスティスでいいかい? 」夫の白い歯が健康そうに微笑む。
「ええ、いいわ。ありがとう。」私は答える。
ほんの数分の私の海の時間とその同時間に、この船の上に存在した夫とベロニックのテレパシーのスピードは、夫と私の会話とは時限の違う速さで的確に行われていた。質問不要の濃い会話がそこにはあった。
私は濡れた水着の上からバスローブをはおり、デッキの椅子に腰掛けると、隣にロホンが腰掛けた。前に夫、その隣にベロニック。
キラッと光るネックレス、ベロニックがかけているそれは、私に突き刺さるような輝きを発している。夫が独身の頃、誰かに買ったプレゼント・・・。古い記憶が行ったり着たりしている。
あれは確か・・・夫は誰かに・・あれは・・ベロニックに・・・そう感じた時、私の前に座っていた彼女はパスティスが入ったグラスを揺らしながら、空いた手で無造作にネックレスに指を絡ませ、夫を見つめ、そして私を見て微笑んだ。

突然、船が大きく揺れ、私達は船後方へ滑るように倒れこんだ。グラスが割れる音、ベロニックの悲鳴。でも私は声も上げなかった。ただ大きな無気力の世界にいた。倒れた場所で無抵抗に、私は人生を何かの力に任せている。そのまま座って海を眺めた。
夫とベロニックの過去がストーリーとなって、細かな日常が私の目の中に繰り広げられ、私は今の時空間ではない所に追いやられている。その扉を開けてしまった私の脳裏が後悔することもなく、ただ知りたいことに集中して、どんどん次の扉、又次の扉と開け始めている。

ロホンは私が船酔いでもしたのだろうと、冷蔵庫からミネラルを持って私の隣に腰掛けた。ロホンは私にボトルごと渡すと、言葉もなく子供のような笑顔でやさしく微笑んだ。
(貴方は気付かないの? )私は目で伝えようとしたけれど、あまりに澄んだ彼の美しいブルーの瞳に動揺し、私はこの不快なテレパシーを打ち切った。この人には苦しみやジェラシーは不要のもの。私は感じることを伝えないことに決め、私自身も彼らの不思議な様子に目を伏せよう。

夕食は夕陽が沈む時間に、合わせてゆっくりと楽しんだ。
パシャリと軽い音を発して、魚が船の横で跳ねた。
海水から飛び出し、新鮮な空気に触れることを遊んでいるように・・。





夕陽がくれた元気で私は、又いつもの私へと戻っている。ひとつの狭い世界に閉じこもることは無い。自分を解放して大きな世界に目を向けてみればいい。この地球が私を乗せて幸福へと運んでくれる。信じるがいい。どこまでも信じるがいい。
夫からロホンへと、私の何かが移動し始めている。ジワリ、ジワリと太陽がいたずらを始めた。美しく海を染める夕陽は私に何かを求めている。
アルコールも手つだって私の心は広い海に広がって行く。惨めな思いなどすることはない。私は私の幸福の形を持っているから、こうして自然と語り合う私がいれば何も恐れることはない。
私達4人は其々の心を持ち、其々の思いと其々の幸福の形を見つめている。夫は混乱の愛を持って幸福だろうか?

私達は其々の部屋に入った。奥の寝室を私達夫婦。デッキ中央の下にロホン夫婦。ひとつの壁を挟んで隣り合わせになっている、2つの寝室は私に圧迫感を与えた。今夜はあまり眠れない。そばにいる夫の寝たふりが、重く暗い空気を作っている。夫は何かに集中して聞き耳を立てている。その先にあるのは友人達の寝室。カタンと何かがぶつかる小さな音にも敏感になっている。波に揺れ船がきしむ音さえ苦痛に感じているように。

友人達は夫婦なのだから、何があっても夫の知るべきことではないのに。いいえ、だからこそ、夫の耳は緊張し、抵抗し暗い世界に入り込んでいる。今なら私が外に飛び出し叫んでも、身動きひとつできないだろう。
きっとそんなにも深く、妙な彼の脳裏にある独特な世界へ没頭している。夫がその妙な世界から、開放されることを私は静かに望んだ。あまりにも哀れでかわいそうだから。

太陽が船の丸い刳り抜き窓から朝を知らせてくれた。私は眠ったのか又そうではなかったか? どちら付かずの記憶の中から逃げ出す瞬間を、無駄にはしなかった。私は跳ね起きベットから抜けデッキへと上った。
地中海。青い空と青い海は人間の小さな命を最も大切な存在として、こうして運んでいる。命の数々を色々な場所へ肉体と魂を色々な所へ、いろいろな次元へと運び続けている。
観光客をいっぱい乗せた大きな船が、私達の船の横を通っていく。知らない人達が私に手を振る。お返しに私は微笑み軽く手を上げた。

大勢の人が何かのリズムに引き寄せられ出会う。たった一人のかけがいの無い人と、恋をしたこと、結婚をしたこと、その組み合わせが本物かどうかは誰が知るだろう? 本物の恋をした? 本物の結婚をした? 私は自分に問いかけてみた。(考えるのはよそう)と風が帆をたなびかせ、私を別の世界へと誘う。


 4


カモメが帆の先に止まって私の動きを伺っている。エサを投げると流し目で見ながら、すばやく海に落ちる前に口ばしで捉える。半円を美しく描きまた帆に戻ってくる。私を直視しないまま、上手に手元の動きを観察している。
「どこから来たの? そしてこれからひとりで何処へ行くの? 」答えるはずもないカモメに私は話しかける。私の未来への不安に問いかけるように・・・。

ポーポー と汽笛が聞こえる。いつの間にか大きな船のコースに私達の小さな船は流されていた。 注意! の汽笛。
夫とロホンはその汽笛を聞いたと同時に、すばやい行動で帆の調整を始めている。急に風が強くなり思うように転換できない。夫は下へ降りてペンチを探して来た。そしてロホンに渡す。2人は大学の時からヨット仲間で息の合う手際の良いコンビだった。巧みな操作で急なピンチも乗り越えてきた。毎年ヨットレースにも参加し、夫の書斎にはロホンと2人で肩を組みトロフィーを掲げた写真が今も飾られている。
この2人なら大丈夫。男性的で機敏な、そして本能的な2人の行動に、私は頼もしさを感じている。

突然パキッと音がして帆がクシャクシャになった。風が急に向きを変えた。夫の右腕からは血がにじんでいる。方向を変えられないまま大きな貨物船に向かって私達の船は突進している。ポーポー ポーポー ポーポー 汽笛は繰り返し、緊急警告が高鳴った。私達は無我夢中で海に飛び込んだ。

衝突する。私はそう思った。貨物船のすぐ前を通過していく無人の船は、難なく貨物船ぎりぎりで通って行った。哀れな穂はクシャクシャのまま、船は持ち主が戻ってくるのを待っている。しばらく浮いていると風も止み、船の周りにロープつきの浮き輪が浮いている。
4人とも無事に浮き輪にしがみついた。貨物船の後方から
「大丈夫かい? 」と男の声を聞き、私達は安全を知らせる意味で手を振った。4つの浮き輪は其々に私達を船へと引き戻してくれる。ロープをたぐり寄せれば安全地帯に乗り込める。貨物船から緊急援助の必要はあるかと、アナウンスが流れた。夫は必要ないと合図した。
海に飛び込む前に、夫が浮き輪を投げていたことを思い出した。夫のとっさの判断が4つの命を救ってくれた。
私はこの海の中で、ありがとうのキスをしようとした。
しかし、夫の目はベロニックに向けられていた。






やっとの思いで船に乗り込んだ。船に向かう途中、私は体は力が抜け泳ぐことすらできない無気力に陥っていた。ロホンが後ろから支えてくれなかったら、海に飲まれてしまっていたかも知れない。
(浮き輪など必要ない)そんなことを思っていた、なげやりな、危なげな私。船に戻った私は口もきけず、バスタオルで体を包んだ。私の深い所から寒さがこみ上げて来る。身震いは水のせいではない。
ロホンは私の塗れた髪をぬぐってくれている。心配そうなあのブルーの瞳で私の心の奥を覗き込んでいる。私は何も言えず、ただ涙が止まらない。夫へのやり場の無い私の崩れそうな愛、それともロホンの親切のせい、どちらが理由なのか解らないまま涙が落ちる。

ロホンはその涙が恐怖からだと思っているように
「もう、大丈夫だよ。もう怖がらないで。」と言いながら私を包んでくれる。
「疲れただろう? 」後ろから夫の声。でも私は返事ができない。口はもう開けられない。夫の為には。

命が危険な時、夫は私ではなく、別の女性を見つめていた。

そのことが、その事実の、夫の脳裏の奥に、潜む何かの、ヒントが私の中で繰り返されている。私は声を出すことができない。
そのまま(海に沈んでしまってもいい)とさえ思わせた恐ろしい無気力。私はナイフでもなく、ピストルでもなく、愛の形で死への入り口に立ったということを誰も知ることはできない。

ロホンがいつの間にか私に熱いカフェを渡してくれていたことに、2_3度、口に含んで気が付いた。カフェの温かさと味、香りが徐々に私の中へ染み込み生命力となってよみがえっていた。些細な事、小さな心の動きで、こんなにも私は混乱している。どうかしてしまった。部屋に戻り休むことにした。しばらくすると夫もベットに入った。私は眠った振りをしていた。

今夜も又眠れない夜を過ごすことになる、夫は相変わらず隣の寝室に聞き耳を立てている。今夜は昨夜とは異なり、友人の部屋からは命の音が聞こえる。
(今日は危なかった、生きてて良かった。)と語り合う代わりに無言の男女のメッセージが体と体で語り合っている。
隣の部屋の情景は、目を閉じれば自然に私にも夫にも伝わって来る。ジェラシーの範囲では無い。すでに別の不思議なエネルギーの、溢れる生命の、古代から伝わる人間の、本来の姿がそこにある。
私はそんな気がして、私達にはもうないかも知れない、本能の愛の形を考えていた。知らない間に私は深い眠りに落ちた。

ギーギーギーと不思議な音がする。横には夫はいない。何処へ行ったのだろう? 外は真っ暗な闇。電気も消して何も見えない。このベットには私ひとり、





ギーギーギーと音は繰り返されている。私は瞼を開けようとしたけれど、激しい睡魔に引き込まれ、又、深い眠りに入って行く。洞窟を探検するような恐怖を覚えたまま、闇が深くさらに深くなっていくのを体と脳で感じている。
何時間も眠ったらしい、太陽は高くある。水面がキラキラと反射を投げ、部屋の丸い刳り抜き窓に当たり、私のベットに光が踊っている。夫は昨夜何処へ行ったのだろう?
階段を上がりドアを持ち上げると、デッキには3人が寛いでいる。ベロニックはすでに泳いだようだ。髪はまだ濡れていて水着のままロホンにクリームを塗ってもらっている。
夫はチェアーに腰掛け本を読んでいる。私はグラスにミネラルを取り、海を眺める。カモメもいない、静かな水面、キラキラと遊ぶ光の宝石。
人生はこの船のように浮かび、進み、戻り、波が立ち、狂い、静かになる。そして最初の日のように変わらず、水はキラキラと輝いている。

ふと視線を感じて振り返ると、ロホンが立っている。クリームのついた手をタオルで拭いながら、私を見つめている。私はその視線をはずし、部屋へ戻った。家を出る時に本を持ってきたはず、星と方向をテーマにした推理小説、読みかけのしおりは日本人形の折り紙。たしかバックに入れたはずだけど・・・。

「これかい? 探しているのは、」後ろからロホンが声をかけた。あまりに近い声だったので、私は小さな驚きの悲鳴を発していた。
「ごめんよ。脅かして、本を借りたよ。今朝、朝食を誘った時、あまりよく寝ていたから、そのままにしようと思った。バックの上にあったこの本が目についてね、拝借したよ。素敵な本だね。君らしいよ。ロマンティックだ。  あ、それと、僕は星座には、詳しいよ。」
私は黙って微笑み本を受け取った。ロホンは私の指をかすかに掴み、そして階段を上がって行った。


 7



イタリアの岸、船に乗ってから3日ぶりに陸に上がると、体はまだ揺れているような不安定な感じがする。しばらく行くとカフェテリアがあった。
地中海のブルーに似合う白いカフェテリア、ギャルソンが元気に
「ボンジョールノ」と声をかける。毎日大勢の観光客が訪れる。
私達はその中のほんの一部の客にすぎない。数多くの思い出を持った一組の客。私達はエメラルドブルーの海を見下ろすテラスに腰掛けた。
サラダとパン、そしてこの店のお勧めシーフード料理を頼み、ビールを口にすると、景色はさらに色を濃くした。陸からの海を見降ろし食事を済ませ、これからの船中用に食材を買い込むことにした。

「買い物はこの奥の細道を降りて行けば、道両側にフルーツ、野菜、肉が手に入るよ。」とギャルソンが教えてくれた。彼が言ったように、
鮮やかな色の野菜やフルーツが、思ったより安く豊富に手に入った。

船から時々釣りをしてバーベキューを楽しんだので、街では肉を5種類、牛、豚、鳥、ダンド(ダチョウ)ラパン(ウサギ)を買った。
ウサギは形がそのまま残されている1匹丸ごとで生々しい姿なので、私を除いた3人で食することにして、私の分はその代わりにヒレミニョン(子牛の柔らかな赤み)を選んだ。

街を歩く時は、地球のしっかりとした大地にいるのだということを改めて味わう。2泊3日水に浮く生活をしただけなのに、地球の大地がこんなに懐かしく感じる。旅は新しい発見を私に与えてくれる。普段気が付かない尊いことを。
(生きていること、無意識に在ることが、どんなに大切なことなのか)と私はひとり考えながら、3人の会話は音楽のように流れていた。
夫が私の名を呼んで、
「ね、そうだったよね? 」と聞いた。現実に引き戻された私は、何の話だかさっぱり解らない。聞いていなかったし、それにどのような話だろうと、今私が感じていることの他には興味が無いほど、私の思いは有意義だった。
「ああ、又、彼女は月にいたようだ。」と夫の声。
私は夫の問いには答えず、
「地球ってすごいわ。私達は普段忘れていたのね。この恵まれた大地、植物や、動物が私達に与えてくれるエネルギーと、全てのバランスがここに揃っているということ。嬉しいわ。生きているって楽しいわ。」
そう思わず声に出していた。
「オー、ブラボー、ポエムだよ。」とロホンは私の頬にキスをした。
彼の瞳はさらに濃いブルーだった。




久しぶりの肉が焼ける匂いに、お腹の虫も騒ぎだした。
「この匂い、たまんない! 」と口々に、これから始まる晩餐を楽しんで準備している。お皿を並べ、ワインは手に入れたばかりのイタリア産キャンティーの赤、野菜は大きなピーマン、じゃがいも等を焼き、サラダもテーブルに並んだ。

夫は最初のワインを一口含みそして、肉に合うワインを選んだことを説明している。
「タンニンが程よくある、苦味のバランスは絶品だ。肉をほおばったまま少し流し込んでごらん、そして口の中でワインと肉のハーモニーを確かめてご覧よ。いける!」と親指を立てて笑った。

私と夫の出会いはパーティーだった。その時もこの様にワインについて語り皆の注目を浴びていた。そして私を彼の隣の席に座るようにエスコートしたのだった。私の知らない知識を豊富に持ち、自信を持って語りかけてくれる夫の話に夢中になった。それからは度々プライベートでパリにある有名なレストランで2人の食事を楽しんだ。フィアンセだと家族に紹介されるまで、時間はかからなかった。

私はいつも彼の話しを楽しんできたのではなかったろうか?
今は遠い昔話のようで、私はこの船のようにプカプカ浮いた感じで、夫のワイン説を聞いている。

ロホンは私のグラスにカチンと音をさせて
「君はまだ月にいるの? 」と聞いた。

少し酔いが回ったようだ。横になりたい。まだデザートが済んでいないが瞼が重くなってきた。あくびも我慢できないほどになった。
「おやすみなさい。そして素敵な夜を。」と3人に声をかけ席を立った。
その時私の目に入ったものは、私の不思議を解明するものだった。





夫とベロニック、私とロホンが向き合ったテーブル。私のモヤモヤとした謎は、私が席を立った時に、はっきりと私の目の前に証明されることになった。
ベロニックの足は私の夫のヒザの間に包まれている。夫は少しあわてた様子、彼女は静かに足を引っ込めたが、私を見つめる目は動揺することなく、微笑みすら浮かべている。

私の体は硬直した。そしてはっきりした二人の関係。それに対しての私自身は見失ったまま。その証拠を見なかったことにするか、それとも大騒ぎするか、夫にビンタを与えるか、ベロニックにワイングラスを投げるか。
様々な私の考えられる行動を選んで、そのことが一度に私を混乱させた。
私はそのまま何もしないで、言葉も無く部屋へ向かった。階段を下りる前にロホンを振り返ると、彼は私を見つめていた。優しい眼差しで。あのブルーの瞳で。

部屋に戻ったのは眠る為、でも又、今夜も眠ることができなくなった。船の揺れはいつもより少なく、穏やかな水の上だというのに・・・。
私はロホンから返してもらった本を手にし、眠くなるまで読むことにした。星について不思議なストーリーが世界と恋と人生と天体を奏でている。
素晴らしいこの世界で苦しむなんて。と言うように・・・。
いくつもの星、その星ひとつずつが太陽の輝きを持ち、何億光年の光が私の目に届いている。この桁はずれな大きな存在の中にあって、私はたった一つの私の命の輝きを曇らせている。ああ、なんてナンセンス。
ロホンは星に詳しいと言っていた。今夜はロホンと星について語ろう。時間など気にしないで、夫のことやベロニックのことなど気にしないで。

本を一節きりがいい所まで読み終えると、私はガウンを羽織り階段を上がった。ドアを持ち上げ外を見ると、やはりロホンは星を眺めていた。私はそっとそばに近付き
「綺麗ね。あの沢山の星達は何年間輝くのだろう? 」と小さな声で話しかけた。振り向いたロホンの瞳には涙が溢れていた。


10


私はロホンの涙の意味を問わず、涙が流れた跡を残した彼の頬にそっとキスをした。悲しみの塩の味がした。夫とベロニックは食器を洗っている。楽しそうに笑いながら、今日のイタリアのお店や小道にあったお土産について、あまり記憶に残らないような日常的な会話を楽しんでいる。

人間にもし、チャンネルがあったら、きっとあの2人はバラエティーかニュースの同じ種類に属したチャンネルを持っている。私とロホンは別のチャンネルのようだ。2人のそれは同じかどうかは、解らないけれど・・・。
現実的なこととは別の何かを探しているような遠くを見る目。奥に深い感性。何かを恐れている不安定な空気。それはきっと私とロホンの共通のチャンネルかも知れない。私達は何も言わず、こぼれてきそうな美しい星を肩を並べて眺めていた。
私の脳裏をかすめるのは、ロホンの涙の訳。聞きたいような聞きたくないような、けだるさだけが漂っている。ロホンも私が聞かない限り言わないだろう。それはいつか自然にやって来る。何かのメッセージから知ることができることだから。私はそれに触れることはしないだろう、たぶん。

明日はギリシャに着く。その後私達は1泊ホテルに泊まり、ギリシャを観光する。そして船は専門の人に任せ自宅まで運んでもらう。私達は別々の道で其々の家へと戻っていく。そして今までのように、いつもの生活をする。この船の旅は私に沢山の思い出を残してくれた。
日常の空気とは別の空気に漂った私の命。
様々な心の動きを脳裏に残して。私達の旅は明日で終わろうとしている。


11


ギリシャの朝、夜明け前に夫とロホンはエンジンの音をさせて、海岸に船を寄せ始めた。私はバックに身の回りの物をかたずけ、最後に本を入れる。退屈な時にすぐに出せるように、いつもの習慣で本は一番上と決めている。
夫の荷物をかたずけようと、シャツをハンガーから外した瞬間に、ベロニックのコロンの香りがした。二人は香りが移る程一緒の時を過ごしたということなのか? でも、いつ?

私が深い眠りに落ちた時、変な音で目が覚めた時があった。いつもならそのまま起きてしまうのに、あの時は妙に睡魔に沈んでしまった。
あの時は、ロホンは何をしていたのかしら?
私は隣の部屋でベロニックが荷物をまとめていることを確かめてから、デッキに上がった。ロホンに本を渡す振りをして、片手に本を持ち
「ロホン、この本が気に入っていたのならあげるわ。私は昨夜読んでしまったから・・・。」そう夫にも聞こえるように言い。ロホンが私に近付いた時、
「3日目の夜、貴方は何処にいたの? 」小さな声でロホンに尋ねた。
「ああ、久しぶりにぐっすり眠った日だ。どうして? でも変だね。僕は船の中ではいつも眠りが浅い。そとの水の音が常に聞こえるんだ。でもあの日は何も聞こえない程、深くねむったな。」とぼんやり思い出している。
「私達は眠らされていたの。あの日眠る前にベロニックはチザンヌを入れてくれたでしょう? 疲れが取れるからと言って。私は眠りが異常なほど深かったわ。あの日貴方も眠っていたのね。」
私はそれだけを確認すると、ロホンに本を渡して部屋へ下りた。
夫のシャツの匂いを早く消したかった。

ギリシャの岸が近くなると、眩しいほどに白い建物が、青い空と青い海に挟まれて、異国の空気で迎えてくれた。私は、はっきりとした覚悟を持って、ミコノスに降りた。
バックの中は私の物、ボストンバックには夫の物、いつもなら洗面用品や重いものを夫のボストンに。服や下着の軽いものを私のバックに入れる。今日は別々に荷物を分けている。これからもずっと、私達の下着が重なリ同じバックに入ることはない。


12



ホテルに着くとロビーでは、笑顔のボーイが、風通しの良いテラスにウエルカムドリンクの用意がある事を教えてくれた。荷物を部屋に運んでくれている間、私はハーフビールを飲んで、喉の奥の苛立ちと渇きを癒した。
部屋は別にしたいところだけど、夫はまだ私の決意を知らない。今夜はこの旅の最後の日。二人で話し合うか、もしくは最後の夜を何も語らず、私からの(さよなら)のテレパシーを受け取るか? 夫はキャッチできるだろうか? それとも又、私とロホンに睡眠薬入りのチザンヌを準備するかしら?
部屋に荷物が整えられている頃、私達は散歩に出かけた。
ギリシャの街を歩きながら、私は一人で買い物があると口実を作り、一人になれる場所を求めて海岸まで戻ってきた。そして海を眺めていた。
ただぼんやりとした時間が欲しかった。何も考えたくない。歩きたくもない。夫の声も聞きたくない。ただ一人の時間で胸いっぱいに呼吸したかった。青い空、青い海、とわたし。

数時間が過ぎたのだろうか、後ろのレストランでは食器の音が聞こえ、人の話し声が始まった。私は肩からワンピースの紐をはずすと足元に脱ぎ捨て、海に体を任せた。限りなく青い。もぐって魚のようにゆっくりと泳いだ。人間の浅はかな考えに疲れていた。他の動物も自分の欲でこんなおろかな事をするだろうか? 私は被害意識など受け入れる気にはなれず、私の存在のみを考えたかった。何処でどのような人生をおくりたいか。誰とどのような人生があるか。
もしくは、ひとりで何ができるか。ありとあらゆる方法を思い。そして魚のように泳ぐことだけをいつまでも続けた。

深く沈み、外の音など、聞こえない、静かな世界に、私は幸福を見つけようとしている。



13

 

息が止まればいい。このまま海の中へ、自然に溶け込 むことができれば、どんなにらくだろうか? 深くもっと深く沈んで・・・

 

魚たちの群れ、輝く太陽は小さな魚にさえ、光をあて ている。魚たちは一斉に方向を変えた。輝く光の中で誰が決めるともなく同時に。
美しい・・なんて美しい・・世界なのだろう。

魚たちの群れに合わせ水中から上を見上げると、太陽 が私にも降り注いでいた。水を通してなお、私に光を当てている。
遠くで人の声が聞こえる。それは私の小さな頃の独り 言。

「大きくなったら大好きな人の奥さんになるの。そし て子供と一緒にお買い物をするの。クリスマスには夫にセーターを編むわ。」毎日の小さな出来事の繰り返しが夢だった・・・。力が解けていく。海の中に沈ん でいく私の体。もう聞こえない、人の声も嘆きも何も届かない所へ行く。

ロホンは心配しているだろうか? あのさみしそうな 美しいブルーの瞳。もう一度あの目を見たかった。二人で静かに見つめあうだけの時間が欲しかった。私たちには言葉はいらない。疑いも、批判もない。ただ静 かな時間の流れが全てを包んでくれる。

 

小 さな光が上へ向かってひとつ、ふたつ、みっつと上がっていく。徐々にその光は大きくなり長い尾を引いてゆらゆらと揺れている。私の腕を柔らかく掴むものが ある・・。


私の体は太陽に吸い込まれていく。





***



パリ編

            「アンニュイの正体」



朝から雨が降るパリ
目が覚めたまま体を起こしたくないベットの中の居心地
怠け者のあせり
何かが通り過ぎた、たそがれ

好奇心を残してたたずむ
すべきことをしたずーと後に訪れる何か
虚脱、脱力
新しい夢が訪れる少し手前
空白の時

小さな嘘のくすぐり
生まれた意味を探る、どうどうめぐりの途中
明日が自動的にやってくる間の今日
明日の遠い思い出

古い過去の近くに在る呼吸
知らない人へ送る幸福の願い
虹の下へ向かって追いかける少年
水分を求めている体
心の片隅の乾き

語りかける夕陽の静けさ
込み合ったメトロに押しつぶされ降りることができない自分の駅
通り過ぎた母性
後ろにある守護霊のやさしさ
詩人が語る世界
真昼を通過した白い月

遠い昔の父と母のひそひそ話し
祖母の白いおっぱい
子供の頃の弟の笑顔
娘の寝顔
少しの幸福と不安
知らない事への苛立ち

今日の命の音
内臓にある魂
空想の世界の天使
地球の外の何かとの間

これらのもっと無限の当ても無い
言いようのないものと私の心







***






「意思の表現」


今は閉じられたままになったレストラン。看板も無い入り口の小さなドアを押すと、カランカランと鐘の音がした。

周りは賑やかなパリ5区。一歩ドアの中に入ると異次元な空間。
奥から2番目右テーブル、こちらに向いて座っている老紳士。
目線はさりげなく膝に置いたジャーナルに向けられている。

ドアを開ける音で、私の存在を知っているはず。確かめることも無く静かに下を向き読み続けている。昨日会ってから今日で2回目。すでに何でも私のことを知っているような、安心した空気に包まれている。

彼の向かいの席に、私は静かに腰掛ける。読みかけの物を切れのいい所まで読んでいてかまわない。私はいつまでも待っていてもいい。この人がくつろいでいるのなら、その時間は何よりも大切な時間となるのだから。

彼はそっと目線を私に向け、ジャーナルを閉じた。そしてゆっくり暖かく微笑み、立ちあがり私の右手を取りキスをした。
「ボンジュー、マダム」

私は彼の頬にキスをしたい衝動にかられ、こらえた。
遠くから、もう少しの間もっと遠くから見つめていたい人だから。
年齢は私の母と同年ぐらい、 髪には白いものが多くなりウエーブのかかった柔らかなブラウン。茶系にそろえたジャケットとシャツ、ズボン。センスもさりげなく上品で落ち着いた雰囲気。

彼の指は男性的な形、ペンか本しか持ったことがないような美しい手なのに、骨格はしっかりとして、バランスの取れた形の良い手。シャーナルをテーブルに置く仕草は、音の無い風に乗って自然に動くような、その間彼の目は優しく私に向けている。

もし私がもっと前に会っていたら。そんな思いが強く突き抜けて行く。

2

前世の約束があったかのような出会い。それは、昨年の冬、ホテル経営の情報が舞い込んだ寒い日。漠然と何年も前から私の脳裏に浮かんでは消えて、何度も繰り返された無意識の構造。青写真のようにぼんやりしたまぼろしの計画。誰に告げることなく浮かんでは又消えて行った。

その日、私達は家族でスキー場に居た。一面の銀世界。平日ということもあり、山には私達親子3人とスキー場で働く数人のスタッフ。太陽が強く白銀に跳ね返り、私はサングラスを取りに車へ戻った。その時だった。携帯電話が鳴ったのは。
留守番電話からの転送システムでメッセージが残されていた。

「ホテル経営の件でお話があります。再度連絡します。」簡単なメッセージだったが、私の胸は高鳴った。

サングラスをかけ携帯電話をポケットに入れる。山を見上げると真っ白な雪に太陽が反射しキラキラと輝いていた。

あの日から1週間とたたない内に数回の電話で、彼の意向をほとんど聞いた。
私は今、パリにいる。そしてこの紳士と会って2日目、私達はすでにお互いの考えや感性について、通じ合うものがある。
人生をかけてみたい。そう思わせる彼の静かな暖かな視線。
彼の瞳の輝きは、まるで昔恋人だった人に突然会ったような、驚きと懐かしさと愛しさと戸惑いが入り混じっている。何年も会えなくて人生を遠回りしたと言いたげな眼差し。
「私は日本に暮らしたことがあります。」彼はそう呟いた。
やはり、私の中に遠い記憶を戻しつつある。私は静かに次の彼の言葉を待った。

「彼女は医者になるために勉強していた。そしてそれか叶えられた。もう随分前のことだがね。その人は君に似ている。」彼の声は低く、そしてよく通る優しい声。その恋人は自分の夢に向かって充分に生きたのだと言う。彼の声には包容力と少しの諦めが混じっていた。

彼女との恋の延長線にあるはずの人生は、2本のレールの上を別々に走り、混じることはなかった。彼の諦めは彼女の夢を叶える為に、彼が飲み込んだ愛の形として影を残している。
こんな大きな包容力を私は感じたことが無い。世界の全ての可能な限りのエネルギーを、一人の女性に使い果たした男のロマンがそこにある。恋人が望むのであれば、お互いに別々の道を走ることを受け入れた。それが例え人生に必要な人であったとしても。

何がここまでの強さを、彼の中に閉じ込めたのだろう?

私は会うべくして会う人生の不思議なエネルギーを、かすかに感じ取っていた。
私の中の鈍い疼きが、少しずつ熱くなっていく。この瞬間の全ての為に、今、私は存在している。
この空気に囲まれていたい。彼のそばにいたい。前世では私の父だったか。夫だったのか。最愛の兄だったのか? 懐かしさがこみ上げてくる。多くを語らなくてもこんなに私はこの人を求めていた。探していた。

どうしたらいいのだろう? これからビジネスの話をしなければならないと言うのに。このままこの空気に酔いしれていたい。話なんてなんの意味があるのだろう。

私たちはテレパシーで会話ができているのだから。





***



   「オペラ座」


パリオペラ座、美しいシャガールの天井や、入り口に堂々と構えるオブジェとなった音楽家達、其の他にも古典的な客用シート、壁に書かれた絵、シャンデリア、階段にも施された繊細な芸術に圧倒される。

2階部分から個室用のロージュ(ボックス席)があり、2_3列4_6人用に並べられた椅子。其の後方はコート賭け、赤いビロードの布で覆われた長椅子、各ロージュに付いたドアと鍵。長椅子からはステージは眺めることはできない。音楽だけが聞こえる。誰からも見られない隠れた所に置かれている。荷物用にしては布の張り方が請っている。付き人が控える場所か、もしくは秘められた場所として利用されていたことは想像するに難しくはない。ナポレオン3世、19世紀後半の時代の香りが漂う。
ルイ14世が最初にオペラパリを建ててから、13件目となる。

私は父の友人に誘われ、このオペラ座に入った。係りの女性にロージュに案内され、クラシックバレーが始まると、外からドアが閉められ鍵がかかる。私とムッシューとクラシック音楽とバレーの世界。ステージに向かって左側の前から4列目のロージュ。私達の2客椅子後方に4人分の椅子がある。今日は私達2人の為に後方は空いている。
催しは(シンデレラ)ストーリーはよく知られている、貧しい娘がガラスの靴で王子の后になる物語。それをアレンジして貧しい姿の娘は1晩の魔法によって美しく着飾ることが許され、片方を残したダンスシューズでスターになる物語。ダンサーの美しい手、足、うなじ、腰の流れるような動きに、私は思わずため息を付く。

彼は私の感動の居場所を探っている。私という人間がどんなシーンで感動するのか興味を持って観察している。しばらくすると、私をステージよりに腰掛るようにエスコートし、彼は後方から包むように椅子を変えて腰掛けた。

私の感動が他の観客とは異なるような時、彼は喜び、私の膝に手を乗せる。そして体温で彼も感動していることを伝える。
私の背中の開いたドレスで彼の息が直接背中にかかる。綺麗に整えられた彼の栗色の髪は、やさしい男性の香りがする。彼は私の首筋にそっとキスをした。
ダンサー達の溶けそうな動きに合わせ、私達も幸福のリズムに入って行く。オーケストラとの共鳴と宇宙に漂う私達の魂。

目頭が熱くなる、こみ上げてくる感動を遠慮もなく表現できるこの個室用ロージュ。天井に向けて大きく呼吸する時、シャガールの絵の意味が見事に伝わって来る。天使が泳いでいる。
この場所に相応しく在るべくして存在している。シャガールの絵。そして私達ふたり。私達は親子ほどの年を越えて、大きな愛に包まれている。
このロージュは、時代を超えて幾つもの恋を見て来たのだろうか?
オペラ座の怪人も今の私達の恋を、どこかから眺めているような気配がする。

オペラ座を出る時、私は階段にいた係りの男性に尋ねた。
「オペラ座の怪人が住んでいた洞窟はあるの? そしてそれはストーリーのヒントなの? それとも本当に? 」
「マダム、このお話はとってもミステリーです。洞窟は実存します。そしてこの話が本当かどうかは秘密です。今も彼はこの洞窟に居るかも知れませんよ。ほら、貴方の横で貴方に語りかけようとしている。」





***




   「パリのお墓」


遠い過去から何かの縁に導かれ、私はパリのお墓へたどり着いた。入り口に入ると、そこは緑の木々に囲まれた静かな時空。

このお墓の地図を見ると、多くの有名無名の人が眠っている。
日本から船に乗り長い旅を終え、フランスに着いた当日に息を引き取ったパリを知らない日本人のお墓もある。国籍に関係なく作家、建築家、音楽家、画家、映画関係者、其々の人生を終えてここに眠る。

様々な思いを込めた墓石のデザインが、その人と残された家族の雰囲気を伝えている。8歳で亡くなった犬と戯れているかわいい子供。恋人に殺された女優。しばらく石畳を行くとラビアンローズを歌った歌手のそれには、歌に合わせ真っ赤なバラの花が一輪、新しいのが添えられている。私は彼らの人生を其々に空想しながら歩く。

有名な作家のお墓は、後半ホテル代も払えないほど、貧しかったにも関わらず、大きくりっぱな、彼に相応しい形を残している。その墓石の前には、大勢の人が集まっている。生前、彼はタバコの煙に目を細め、そして胸深く吸い込み、苦しい体で、ホテルの壁を見ながら死んでいった。彼のお墓には大勢のキスの跡が残っている。アイルランド人でありながら其の当時、人権すら奪われたホモセクシャル。国外追放の為ここフランスに眠る。宿泊先のホテルでは、作品を書きながら自分の死が訪れていることを悟っていた。
「私はこの壁紙が気に入らない。私かこの壁紙か、どちらかが無くなればいい。」最後にこう語った、その人はオスカー・ワイルド、1900年没。

様々な人生。この場所にあってこの場所を望まなかった魂もある。
この場所に眠って、すでに何世紀も過ぎた人と共に眠っている。
時間と空間の不思議。時に追われている間は見えない空間。

このシムチエー(お墓)は、私に何かを語っている。(時間に追われることなかれ。人の存在の意味は時間ではなく、別の意味がある。)そんな声を聞いたような気がする。

帰り道、向こうからゆっくり歩いてくる男性ひとり。彼とすれ違う時、私の視線は石畳へそして意識は彼の存在に。人と人が交差するオーラに触れる。私はしばらく歩いて振り返る。と彼は立ち止まり、ゆっくり私へと視線を合わせ微笑み、帽子をつまみ少し上げて会釈した。彼の動きがスローモーションのように素晴らしいシーンとなり、私は大きな満足を感じた。私が彼に微笑みを返すと彼は納得したようにうなずき、又前方を向いて歩き始めた。彼はこの時間のこの空間の中に必要として現われ、通り過ぎて行った。

                  2


その夕方、私はアパルトマンから買い物に出かけ、道でバッタリ友人に出会う。其の友人はいつもパリにはいない人。3年間、会わなかった大切な友人。私はその日偶然にも、彼のことや彼の家族のことを考えていた。彼はイスラエルの家から、このパリに3日間の滞在。そして彼もまたプロヴァンスに居るはずの私達のことを考えていた。彼は私達が、現在パリに住んでいることは知らない。この約束の無い出会いに、お互いに驚き、大喜びしたことは計り知れない。明朝はイスラエルへ帰るという彼と夕食を共にして、今後もお互いに元気で幸福であるようにと強く望んだ。

不思議な現実に感謝する自分がいる。存在の意味はこういうものなのか。目に見えないものに心が動き、計り知れないものに熱い思いが走る。
(人間の時間と空間)の不思議。時を流れている人の魂。空間を共にする人の亡骸。
生きること、死と向き合うこと、人生を考えること、無意識にあること、人と人の間、時と時の間、空と空の間。
パリのお墓ですれ違った人は、私に神秘を与えて通り過ぎた。







***






「浮浪者の言葉」


パリ、シャンゼリーゼ、買い物や観光客で賑わう素敵な散歩道。
小道に入るとジャルダンパブリック(公園)があり、天気の良い日には、老夫婦や親子連れが日向ぼっこをして寛いでいる。
私は最近この場所をよく歩く。ぼんやり人を見たり、花を見たり。東京に居た頃は目的地まで直行。そして用が済むとさっさと帰宅していた。でも最近は時間をもっと楽しむ為に使いたいと思うようになった。景色を味わったり、人間観察したり結構楽しい。
そしてこの公園で気になり始めた人がいる。いつも決まった時間に此処へ来る、70歳ぐらいの浮浪者。この言葉はあまり良くない。SDFサン・ドミシル・フィックス(決まった家がない人)とフランスでは表現している。私は、其の人が気になっている。
どうして気になるかと言うと、不自然な感じ。つまり相応しくない。
何故この生活をしているのか理解に苦しむ。きちんと服を着れば、りっぱな紳士になるだろうに。と思わせる風格と顔つき。実に気になる。話しかけたいけれど中々、勇気が出ない。

私が知りたい事は、彼にとって失礼な問になるかも知れない。
(何故貴方は此処に居るのですか? 人生に何が起きたのですか?)こんなぶしつけな質問に彼は答えるはずが無い。そう思い込んでいる私は、この問を言い出せなくて、そのまま彼の横を通り過ぎる。
しかし、気になる。話のきっかけは、どうすればいいだろう? 私は彼を傷つけずに尋ねることができるだろうか? 回答が得られるだろうか? 様々な迷いと疑問が解けないまま、時間をやり過ごしている。

ジャーナリストなら、マイクを向けて
「今(パリに暮らす人々)というテーマでインタビューを取っています。協力して頂けますか? 」なんて、あっさり聞いたりするのだろう。私は考えすぎる。もっと知りたい事を簡単に知る方法があるのだと思うとじれったい。
しかし私は、自分の求めるもの。つまり、彼の回答に真実と、そして深い内容が欲しい。彼から本当の人生について話が聞きたい。

2週間が過ぎた。私は未だ何も言えず、ただ彼の様子が気になり、買い物をするたびに前を通ってみる、新聞を読むふりをして、彼のそばに数分いたりする。そんなことを繰り返している自分が、何故か妙な気がしてきた。今日は天気もいい。もう忘れよう、聞き出せない自分にがっかりするのは、もう止めよう。無理に話をして、彼に不愉快な思いをさせるくらいなら、何もしない方が良いから。
そんな思いで別の道へ散歩に出かけた。気分転換のつもりで。ところが頭の中は彼のことばかり考えている。(彼の人生に何があったのだろう? )気になるということは結構、厄介なこと。家に帰って美味しい紅茶でも飲もう。そう思い私は家の方角に向けてフルーツ店の角を曲がると、突然、彼が立っていた。



2


私は思わず
「あっ」と声を上げていた。彼はゴミ箱に手をつっこんだまま、
「やあ」と言った。私は後ろに彼の知り合いでもいるのか? と振り返ったが、それらしき人物はいない。彼は私を見て
「マダム、いつも私を見ていたでしょう?」始めて聞く彼の声。張りがありスピーチに慣れた説得力のある深みのある声。
不思議な感じがする。諦めた途端に違う道で彼にばったり会い、彼から声をかけてくれるとは。それに、彼は私の顔を覚えてくれたのだ。話もしていないのに。何日も彼の前を気にしながら通ったから、何か通じたのかも知れない。
「こんにちは。」私の声が少し裏返っている。私は驚きと緊張で変な声になっている。
しかし、この機会を逃さないように、私は思い切って尋ねることにした。
「私は、何故か貴方のことが気になるのです。」と正直に話し始めた。
彼は少し笑ったような気がしたが、目はしっかりと私という人間の中を探っている。この鋭い眼差しは、ただ者ではない。人間の何かを知り抜いた目。この才能があって何故、今このような生活をしているのだろう? 私は益々彼に引き込まれていく。




3


人間の何かを知りぬいた目。
「私、貴方と少し、お話がしたいわ。もし、よろしければ。」と小さな声で言う私に、彼は笑った。そしてやさしい眼差しを向け、
「何故、私と話がしたいのかね?」彼からは私が想像していた質問が返って来た。私は頭の中で用意していた言葉を全て失っていた。彼の堂々とした物怖じしない貫禄に、何も言えないまま数秒が過ぎた。すると、
「ああ、いいよ。時間ならたっぷりあるさ。」と彼は微笑んでいる。良かった。受け入れてくれたようだ。
「私、貴方がどうしてこの場所に、このようにいるのか、少し不思議な気がするの。」と素直に思ったままを告げた。
「沢山の浮浪者がいるじゃないか。皆にも同じ事を聞くのかね?」
「いいえ。ただ、気になったものですから。」
「マダム。こんなことをしていては危険だよ。」
「危険だと感じたら帰ります。」
彼は空を見上げ、心から笑った。

ダイナミックな笑いだった。人生を謳歌しているような。

「貴方の人生は?」
私は小さな声で、そして一番知りたかった事を聞いた。
「僕の人生か、そうだな。なんだろう?」
彼は又、空を見上げ、横切った鳥の行くのを眺めていた。

彼の心は果てしなく広い。
この地球の外側を見ているような、そんな眼差しだった。

「貴方は恋をしたことは?」私の何気ない質問に、彼は一瞬暗い表情をして、すぐに息を吸い込み、何かから逃れた呼吸をした。
たぶんこの深い呼吸は過去に本物の恋をした証。遠い走馬灯の中にいて思わず現実に生き返ったような重い呼吸だった。これが彼の人間の何かを作り上げている。
私は深い部分に触れた気がした。今日はここまでにした方がいいかも知れない。私は知らず知らずに一緒に歩き始め、いつもの彼が座るベンチに並んで腰掛けていた。
「君に」彼は私に言った。
「僕の秘密、観たかったら、かまわないよ。」そう言うと、クシャクシャになったコートのポケットから1枚の紙切れを出した。

そこにはパリ郊外の住所が書かれていた。それは高級住宅地。特に素敵な大きな家が並ぶ有名な場所だった。




4





「これは?」私は、彼から渡された紙、豪邸が並ぶ有名な場所が書かれたその紙を持ったまま尋ねた。彼はしばらく何も言わず、足のそばを通っているアリを眺めている。そして、しばらくすると

「私の家だよ。」ポツンと呟くように言った。

「家には帰らないのですか?」私の質問に、彼はただ無言で深く息を吸い込んだ。彼の重い空気が通り過ぎるのを、私は静かに待った。
「貴方は不思議だと思うだろうね。私には家があるのに、こんな格好をしている、浮浪者だ。だがね、貴方は人生に何を求める?」
私は、何を求める?
彼の質問に私は答えることができない。(ただ小さな願いの積み重ね。)そんなことを思いながら、答えを持たない自分が少し恥ずかしかった。彼はその答えを知っているようで。
「判らない。なんだろう? 人生に何を求めているのだろう?」私は自信がないままつぶやいた。
「それが判れば人生が終わる頃だろうね。きっと。僕はね、志を高く頑張ってきた。色々な仕事もした。会社も創った。家族もいる。孫もできた。社員もいる。しかしね、ある日突然、自由ってやつに魅力を感じてしまったのさ。私も犬や猫と同じ動物なんだとね。それだけのことさ。」

そして大きな息をついて
「家を持てば家に縛られる。会社を持てば会社に、家族を持てば家族に縛られてしまうだろ? 」そう言って彼は私の反応を待ったが、私には彼の意味することが未だ判らない。彼は私の共鳴反応を求めていたのかも知れない。しばらくして又彼は大きく息をして、けだるそうに言った。

「自由ってなんだ? 僕はね、何からも開放されることだと感じている。その答えが何処にあるのか、探している最中さ。そう、それだけのことさ。」





***



          「カミーユ・クローデル」  


日も高くめずらしく乾燥した空気が立ち込めたパリ。私はロダン美術館を訪れた。芸術に触れるのは脳が喜ぶ感じがする。作品によっては何も伝わってこない物もある。しばらく館内を歩く。全てを見る必要は無い。惹かれるものに出会う為に私はここに来たのだから。

何気なく振り向いた所に、私を釘付けにした物があった。
ロダンの力作。カミーユ・クローデルをモデルに造られた裸体女性像。
私は思わず声をあげてしまいそうだった。喉の奥でキュっと言う音がした。あまりに激しく、そして狂おしい愛情を感じて立ち尽くした。

ロダンとカミーユの恋。激しい恋とジェラシーと芸術との間でぶつかり合った男と女。その状況がこの時代を超えた作品から炎のように燃え盛る。カミーユの背中の線と丸いお尻の線が、ありありと体温を放っている。ロダンが体を撫でた感触すら伝わってくる。

「まだ愛している。」と囁いている。立っていることに耐えられなくなるほど激しく狂おしい。こんな愛が地球上に存在している。何年も眠ることなく。
熱く切なく限りなく大きな愛。ありふれた人生では人間が壊されてしまう。人生の そ と が わ を生きなければ、こんな激しい恋に出会うことはないだろう。
誰にも理解できない無限の愛の大きさに押しつぶされ、人生を放棄してしまいそうな狂おしさ。

私は立ち尽くしたまま、どれほどの時間をさまよったのだろう?

2

私の魂は時代を超え、カミーユの体に入っていった。寒い冬だった、
暖炉に薪をくべて部屋を暖めているロダン。後ろで私はロダンを見つめる。私は他の研究生のように彼を先生として観たことが無い。ただ私の中にある芸術の力に突き動かされロダンに会った。むしろ私を世に出す人として必要性を感じたのかも知れない。

時が熟したように彼は芸術を自分の思うままに操り、世界を自分のものにしている。人生の全てをかけた情熱に魘されるような人。私はこの激しさに負けないほどの疼きを持っている。私の人生もこうあるべきだと強く感じていた。そして時が熟すように私はロダンに会った。会うべくして会った、宇宙のリズムで。

私を興奮させたこの人を独り占めしたい願望と、芸術家としてぶつかり合う存在として、私と親子ほど年が違うこのロダンとの関係をつないだ。ロダンにとって私は無くてはならない存在になる。私が居なければ彼の芸術も尽きてしまう。ロダンの未来をそう描いたのは無意識だろうか。

私はカミーユ・クローデル。ロダンが一番恐れる芸術家。そして一番大切な女。この人生をどちらが楽しむか、人生を賭けてみたい。激しい感情に突き動かされ後に引けない。行くところまで行くしかない。
そしてある日、私はロダンに反抗心とライバル意識を持って、いつものアトリエに現れた。そして其の日は私自身であった。とても強く存在している魂があった。
彼は別室で裸体を観察している。私と他生徒や研究家達は、それぞれロダンの指示に従ってアトリエを動き回っている。私の反発はピークに達した。
(何故、ロダンのロボットのように、彼の指示で動かなければならないの?私は一人の芸術家。ふつふつと湧いてくるアイデアを抑えている私には、我慢ならないこと。いつ私の作品が私のリズムで吐き出されるの?)
心の中は熱が充満し、今にも爆発しそうだった。

ロダンが裸体の女性を描きながら、人形のように操り、自由に形を変えている。私はもう我慢ならなかった。(もう沢山! 私は私として自分の芸術を吐き出す場所を求めている。ここでは皆、ロダンの奴隷でしかない。)そう強く意識した時、ロダンが私を見ていた。

あれから、何かに取り付かれたように私達は接近していった。男と女として、そして芸術家ともう一人の芸術家として。

今、私はロダンの後ろに裸で寛いでいる。ロダンのアトリエに2人で閉じこもり、ひらめいたもの全てを作品に吐き出し、芸術家として生まれたことを心の底から喜んでいる。激しい願望は全て作品に注ぎ、命が枯れるまで堪能する。ロダンはすでに私の虜。
私はふざけてポーズを取る。ロダンはしばらく見つめていたが、不意にコンテを探し出し夢中に書き始めた。
私はロダンの好きなポーズを空気で受け止めることができる。彼が興奮すればするほど、もっと欲しいポーズが創り出せる。あと少しで完成を見計らうと、私は簡単に壊してしまいたくなる。

(じっとして)とロダンは目で嘆願する。(嫌だ)と私は体で答える。
言葉など要らない。目とコンテの動きと呼吸で解る。
(ロダン、もう貴方は私の自由よ)と私は表現する。耐えられなくなったロダンは私を抱きしめた。

私に夢中になり狂おしく求める、若いギャルソンのように。私は彼が描いたデッサンを取り、彼に投げつけた。彼は怒りと愛が混乱した険しい顔になった。おかしかった。とてもこっけいだった。
彼は又、コンテを取り描き始める。私がポーズを次々に変えても、お構い無しに何枚も描き続ける。止まらない。止めることができない。彼は私を追いかけ、さらにアトリエ中を転げまわり描き狂っている。
芸術の嵐。激しい感情のブレーキが利かない、心の渦に2人は入った。そして抱き合った。年齢など気にしていない。これから世の中に出て行く素晴らしい作品が次々に現れ、二人をある特別な世界へと導くことを、強く予感した瞬間だった。

例え私達の存在が何世紀離れていようが、私はロダンを追いかけた。

今こうして同じ空気を吸っている。同じ場所に存在している。年齢など何の隔たりにもならない。共有すること、今を一緒に生きること。
私はロダンと在る。ロダンは私が必要になる。これからは2人でひとつの作品を創ろう。私のアイデアで永遠の芸術を残そう。この愛は気が狂うほどの大きな愛だから。何も恐れることは無い。宇宙の中の全てのリズムが私達を結びつけ、力を与え芸術の中心へと運ぶのだから。

私は今、ロダンと生きている永遠の芸術の世界に。カミーユ・クローデル。

3

気が付くと館内は人の気配が無くなっていた。私は急いで階段を駆け下り、外へ出た。ドアを閉める係りの人は微笑んで
「素敵な夜を、マダム。」と言った。

カミーユの最後は精神病院での長い暮らし。其の人生はロダンへの激しいジェラシーと愛に絡まった証。燃え尽きた女の最後の姿がそこにあった。弟はポール・クローデル。詩人でもあり、劇作家としても活躍した。日本におけるフランス大使館の仕事もこなす人物だった。その弟によってカミーユは、精神の究極の魔界から病院へと移動することになる。

フランスには運河を流れる舟が観光として親しまれている。パリのそれは幾つものダムで水位をコントロールして船は行きかう。時には跳ね橋、又ある場所では車用の道路橋を回転させる。その昔
「パリの人々に役に立つことは何だろう? 」
「水を与えて下さい。」
これはナポレオン1世とその相談役の会話。それ以来パリには水の文化が続く。その運河の水は8年に1度入れ替えられる。水はあらゆる神秘を隠し持ち、時に物語る。運河の底に姿を現すピストル、現金が詰まったスーツケース、そしてカミーユクローデルの作品もこの運河から発見された。サンマルタン運河が語るカミーユの神秘。



***


「人間の味・企み」 


セーヌ川のほとりを散歩して、ふと今の時代を思った。
いつものように流れる川。セーヌは様々な人を見て、様々な歴史を知っている。

私は今、インターネットが無いと生きていけない生活をしている。
セーヌは今のスピードのある時代を、どう感じるのだろうか?

私はメトロ:サンミッシェル駅で降りた。今日はカフェで待ち合わせがある。
パリの婦人雑誌のジャーナリスト、活発で気さくな彼女の性格のお陰で、慌しさも笑いに変えることができる。楽しい仕事仲間。

彼女はフランス人には珍しく時間にぴったり現れる。
今日も新聞に視線をなげながら、指にタバコを挟んだままコーヒーカップを持って、シャンゼリゼのカフェテラスに腰掛けている。彼女の前を闊歩するおしゃれなマドモアゼル達に、視線を這わせることも忘れていない。

流行を肌で感じ、すでにフィーリングを捕らえ、明日のファッションジャーナルのネタは彼女の頭の中には、出来上がっていることだろう。

「ボンジュー、サバ?」 私の声に彼女は椅子から立ち上がり、親しみを込めて両頬にキス。
「おもしろい情報ある?」 と彼女。
「そうね、日本のメールマガジンで気になるのが2_3」
私は紹介しようと思っているが、もうひとつ踏み込めないところがある。
それは今私が注目している情報企業家のひとり、話口調で書く彼の書き方に個性があり、会話をしているような親しみを感じる。だから私は筆者の性格を知っているような錯覚に陥っている。そんな自分が気になる。
業界に紹介する時は、私を通じて知っていることが情報として流れる。
紹介したい彼は、誠実、自分に厳しい、勤勉、几帳面、それでいて気さくな言葉を選ぶ。

性格は彼の書き方で伝わってくる。しかし、なぜ踏み込めないか?
人間は完全ではない。人間の味がもう少し欲しい。彼はお酒を飲むだろうか?
どんな時に泣くだろうか? どんな言葉に感激するだろうか? どんな状態で怒りを覚えるだろうか?

私の中で彼の存在が創りあげられている。もっと人間的生身の体温のある人物として紹介できたら、どんなに素敵だろうか。(お会いしたいのです。パリまで来てください。)とも言いにくいし、では、日本へ行って取材をと言えることでもない。この人をどんな風に紹介したら、人間的な魅力をアピールできるだろう。

私は友人であるこのジャーナリストに未だ紹介しないまま、世間話をしている。
ドカーンと彼女の喉の奥まで見えるような笑いと情熱を爆発させようと、私は企んでいる。人間の面白さは最高の魅力になると信じている。完璧な人間には心が動かないのは私だけだろうか?
今日も雑談だけにしてセーヌの帰り道、新しい日本のネタをどのように持っていくか? パズルを組み立て始めた。未だ外に出さないエネルギーは、私の歩調を早くし、大股でリズムよく闊歩し始めている。
2月のパリ、セーヌ川のほとり、肌寒さも心地よく感じるのは、私の中の何かが燃えているから、今日の私は、とてつもなく熱い。
近付く人は火傷しないように気をつけて!






***



   「不思議なメール」


奇妙な書き出しでメールが届いた。
「パトリス、君はこのパーティーに参加するかい? 」
僕の名を知っている誰か、僕はそのメール発信人を知らない。多分いたずらか、それとも送信間違いだろうと思った。

翌日も僕の返事を待っている。という内容のメールが届いた。
僕はこの人を知らない、しかも馴れなれしく君と書かれている。
僕について何を知っているというのだ。どうしてこんなメールを送るのか? 聞いてみたい気もするが、返信するのも考え物だな。もし変な人だったら。まあ、とにかく、このままにしておこう。

「パトリス、君が来ないんじゃ、始まらないよ。」又、翌日も誘いのメール。だけど発信人はしっかり名乗らないし、見覚えのないメールアドレス。いったい誰だろう?

毎日続くこのメールが気になって勉強も手に付かない。6月はバカロレアの試験があるというのに。いい加減にしてくれよ。僕は一人でコンピューターに向かって怒り始めた。いやなメールだな。気になる。無視しようとすればするほど意識してしまう。

食事中も通学中もこのメールのことを考えてしまう。パーティーってどんな? 場所は? 誰と? いつ? 全てが判ってない。

僕は学校から帰ると一番に、この変なメールが届いているか確認するようになった。この3日間は異常だ。僕は返事もしないで、向こうから一方的に送られるメールに振り回されている。

今日も届いた。
「パトリス、君が返事をしないから、ピエールもカトリーヌも待っているよ。」このメールで、僕はひとつのヒントを掴んだ気がした。僕の友人の名前まで知っている。ということは僕に関係のある人物だということだ。すぐに携帯電話の友人リストからピエールにかけてみた。

「ピエール、今度のパーティーは何処でするの?」
「パトリス、何言ってるの? 僕たちは今、試験のことで頭がいっぱいなんだよ。そんなことは大切な目標が終わってからにしてくれないか!」

友人の反応は、変なメールとは関係ないことを証明した。次はカトリーヌに聞いてみた。彼女もピエールと同じ反応だ。しかし、何故、僕の友人の名前まで、こいつは知っているのだろう?

だんだん腹が立ってきた。何処からメールしてる? 誰だ。いったい。僕は頭が変になる前に、確かめるべきだと思うようになった。発信したやつにメールを出してみよう。

カシャカシャ、返信、何から書いたらいいだろう。
「やあ、元気かい? 」変だ。ゴミ箱へ。カシャカシャ
「パーティーは何処? 」変だ。カシャカシャ
「何人集まるの? 」これも変。
「バカヤロウ、ふざけるな!」これはやりすぎ。こんなことばかりしていると、時間が過ぎていって試験勉強もできない。もういい。忘れよう、このままにしよう。

4日目、僕は学校から帰ると真っ先にメールを確認した。ない!
あのメールがない! あいつから毎日来ていた変なメールがない!
どうして来ない? あいつは今、何を考えている? さあ、かかって来い。正体をあばいてやる。早くメールを送れ。どうしたんだ!?

それから毎日、僕はあのメールを待つようになった。いやなことが続いたあげく、それを待っている。妙な話だ。変なやつなのに誰か知りたい。迷惑なメールなのに気になってしかたがない。

いったい僕は、どのパーティーに参加したらいいんだ。
教えてくれ!



***


   「かほり」

アーモンドの花が咲く頃、ほのかな風に乗って優しさが舞い込んだ。
薄く柔らかな香り。花びらは桜を思わせる。薄ピンクの可憐な花びら。

私は書斎から離れて、テラスのアマック(ハンモック)に体を埋めた。揺れながら青い空を見つめると、なおいっそう香りが心にしみてくる。
日本の梅の季節もこんな感じだった。香りに誘われて何度も行った梅が丘。世田谷の羽根木公園、まだ人も込み合わないうちから、私は午後の公園を独りで散歩した。

香りは幸福を運んでくれる。

書斎で仕事専用の電話が鳴った。
アマックからおり、裸足で書斎に入る。
「アロー、」
「ボンジュー、アコ? 僕だよ。」
コマーシャルディレクターのマークだった。
ファッションショーのプロデュースを手伝って欲しいという。
「OK、喜んで。」
「でもね、今回はちょっといつもとは違うよ。だから、イメージが難しいんだ。それで君に相談したいんだ。インスピレーションを与えて欲しい。」
「どんな、ショーにしたいの?」
「香りのショーだよ。」
「コスチュームの指定は?」
「特にない。ただしブランドを使う場合は、了解を得る必要があるし、協賛、もしくは2重コマーシャルの許可がいるんだ。競合にかかると厄介だからノーブランドでいこうと思う。」
「コステュームじゃなくてもいいのね?」
「どういうこと? まさか、裸でマヌカンを歩かせるの? 僕は嬉しいけど。」
マークの頭の中にショーの様子が徐々に膨らみ始め、エキサイティングしている様子が受話器の熱で解る。
「コスチュームはイメージだけで行きましょうよ。」私は頭に描き出てくるコレクションの様子を語り始めた。
「香りは何を使うの?」
「エスティーローダの新作」
「私の未だ知らない香り?」
「ああ、僕もまだだった。」
「明日の会議で初めて香りを嗅ぐ予定なんだ。来てくれるかい?」
「ええ、もちろん行くわ。」
私達は会議の30分前に、会場前のカフェで待ち合わせることにして電話を切った。



2


テラスに戻ると、やさしい香りが風にのって、私にシエスタを薦めた。
もういちど体をゆったりとアマックに横たえると、うとうととシエスタに入っていった。

霧の中に現れる人影。鈴の音が小さく鳴る。幾人もの美しい長い足が裸足で静かに歩いてくる。その動きに合わせ、ほのかな香りが漂ってくる。顔も体もコスチュームもはっきりとは見えない。女性が歩く。香りが放つ。
同じコロンを使っても、体温とつける場所によって異なった香りがする。

アマックに子犬がじぇれて、私は目を閉じたまま子犬の頭を撫ぜる。私の左手は指先がしっとりと濡れている。子犬が私に甘えて喜んでいる。
シエスタが終わったことを合図に、私は子犬を抱き上げた。
「ありがとう。1シーンできたわ。」

3

カフェに行くと、マークは時間前に来ていた。携帯カメラを街行く人に焦点を合わせ、写真を撮っている。気まぐれな彼の趣味。
私が近付くと今度は私に携帯を向けカシャカシャと撮った。
「高くつくわよ。止めなさい。」
彼は微笑んで、私の頬にキスをした。
「今日の香りの打ち合わせに、マヌカンのキャスティングも来るのかしら?」
「ああ、関係者はほとんど来るはずだよ。どうして?」
「キャスティングの担当と少し話がしたいの。」
「君も出るの?」
「いいえ、私はもうとっくに引退したのよ。そうじゃなくって。香りが放つことを重視したコレクションにするのだから、マヌカンの体温と体臭も重要ポイントになるの。」
「そうか! それで?」
マークはピンときたようで、まだ少し解さない点もあるような曖昧な笑顔でカフェを飲みほした。私はおしゃべりし続けるマークの腕を取って、会場へと向かった。

入り口は関係者の名前確認と、名前が書かれたプラスティックのバッジを付ける人達で込み合っていた。

私は人ごみが落ち着くまで、マークと窓際の誰もいないフロアーまで歩いた。
「会場のステージの配置とクライアント席との関係も見たいわ。」
「そうだね、ウオーキングのリハもしなくちゃ。」
「それとコロンを付ける場所を考えたいの。」


色々な打ち合わせがあった。この2週間は毎日が電話と現場、空想の世界と現実。行ったり来たり。慌しくそして活気的な私の好きな時間が過ぎていった。
ステージはI型 とO型を組み合わせた。
本番を迎える当日、私とマークは会場へ早めに入り、最終チェックをした。

4

クライアントが次々に入ってくる。全指定席でマスコミ席を前列中心に、その周りに重要クライアント、女優達、各会社の名前を書いたカードを置いてある。
カードにも新作の香りを染み込ませてある。
開演の合図に証明コントロールで会場は薄いブルーに変わる。

第一ステージ  「オードトワレ・魔力」
ステージにはうっすらと霧が立ち込める。霧の中にほんのりと忍ばせたエスティーローダの新作、小さな鈴の音が始まる。ゆっくりと歩き始めるマヌカン達。コステュームは1枚の布。頭からすっぽりとかけ、素材はオーガンジー、透けるかげろうのような素材。顔も表情もはっきりとは解らない。裸足で静かに歩く。
最初はI型にまっすぐ進み折り返しでUターンして戻る。オーガンジーの色は葵、濃い深みのあるブルー。布が揺れる度に「オードトワレ・魔力」
がクライアント席に零れ落ちる。

クライアント席からため息が漏れた。

第2ステージ
小鳥の声と川のせせらぎの音と共に、O型ステージをオーガンジーを纏ったマヌカン達がハイヒールを履いて、さっそうと歩く。色は自然色の草の緑、雲の白、空の青、花のピンク、黄色、紫、全て淡くやさしい色。
オーガンジーの下は少し濃い同色のランジェリー。
マヌカン達はコロンを足首と膝の裏側につけた。歩く度に今度はしっかりと確かな香りが立つ。
延々と続けていたいと思うほど、クライアントからは、うっとりとしたため息を受け取った。

第3ステージ
全ての証明を消し、真っ暗な闇。無音。
1分経過して、心臓の鼓動をゆっくり小さく流す。
ステージの奥中心に小さな灯りが灯る。それは徐々に大きくなり、地球の形が浮かび上がる。その後ろから大きな太陽が輪郭を持って輝き始める。

ステージの各コーナーと2m間隔にしかけておいた、煙の噴水。「オードトワレ・魔力」が会場全体に香りの花を満開にした。テーマソングに選んだ「ヌムトウキッテパ・行かないで」が聞こえてくる。証明の無い会場には、地球とそれを抱くように太陽の光。2m置きにある香りの霧の噴水に静かな青い光だけが浮かび上がる。

クライアントの顔がうっすらと噴水の光に浮かんでいる。
音楽が音量を細め終わりに近ずく、それに合わせゆっくりと自然光が入ってくる。天井が中央から左右に開く。本物の太陽が会場に降り注ぐ。自然と調和した香りの中で幕を閉じた。



会場からは、しばらく呆然とした静けさがあり、徐々に拍手がわき、さらに歓声と割れる様な拍手の渦となった。


5


マークは私を自宅まで送り届けると、打ち上げパーティーも出ないで、放心状態のように帰っていった。
1週間ほどして、留守番電話にメッセージが入っていた。

「メルシー。アコに頼んで良かった。すごいよ。あれからクライアントの契約は毎日膨らみ生産が追いつかない、嬉しい悲鳴の連続だとエスティーローダから連絡があった。
打ち上げパーティーを改めてしたいと言っている。場所は何処がいいと思う?
モナコ、それともギリシャの海の上のレストランにしようか? 自家用ヘリで迎えに来るって社長が直接電話をくれたよ。」




***


パリ郊外編

   「霧に浮かぶドレープ」


土曜朝、熱いカフェオレを手に窓際に立つと、庭一面に霧がかかっている。うっすらと見える木々、白く深い雲の中、風が無い、空気の流れと時の流れを止めたかのような不思議な景色。(この中へ入っておいで)と誰かが囁く。それはもうひとりの私。

この霧は心を清める美しい情景を私にくれた。近くの教会のツタがぼんやりと緑に浮かび教会の茶色い壁に、根を這わせた異次元の生き物のように、幻想的な夢の国へと私を誘う。私はすぐにコートを羽織りマフラーを持って、庭へつながる石の回り階段を降り庭へと向かった。白く深くどこまでも白い。しっとりとした湿度を感じながら、私は霧の中をゆっくり歩いた。過去のこと、家族のこと、現在、未来、様々な人生のぼんやりとした思いが、万華鏡を通した人生模様となって重なっては消えていく。

朝夕の気温差が激しいパリ郊外、時折自然がこのような霧の世界をプレゼントしてくれる。

水滴を含んでキラキラと輝く白い糸。
ドレープのような滑らかな曲線を描いた、そのきゃしゃな糸は
「とうりゃんせ」と歌った。私は頭を低くして、その糸を壊さないようにくぐった。横から見ても下から覗いても美しい姿。この霧が創り出した芸術。その糸は静かに輝いている。

白い世界を先へ進むと、小鳥が1羽アーモンドの木に止まっている。鳴くこともなく、やはり時間が止まったように静かに羽を閉じている。小鳥を休ませているアーモンドの花は、桜を思わせる。そして私を日本の景色へと誘う。

幼い頃に散歩した祖母の庭、私を呼ぶ祖母の声、弟の小さな靴の音、やさしい微笑み、私は祖母の胸に走っていって飛び込んだ。後からついて来た弟は、一生懸命追いつこうとして転ぶ。私は弟を抱き起こし足についた土を払う。祖母はハンカチを口に含み湿らせて、弟の膝をやさしくふき取り背中におぶる。弟は親指をくわえ、涙の線をほっぺにつけたまま祖母の背中で眠る。

時間を止めたこの霧は、私の人生の最も嬉しい季節、大きな祖母の愛に包まれていた頃の思い出をプレゼントしてくれた。
「ありがとう。」私に素晴らしい時を与えてくれた。

私は胸深くこの美しい空気をいっぱい吸い込んだ。吐く息は白く霧にまぎれる。
ひんやりとした空気が心地良い。石畳の帰り道、石の間に苔が張り付いているのに気が付いた。それは霧によってモザイク模様の、幻想的な世界を創り出していた。これらの全てをゆっくり味わいながら歩く。白く輝く糸の下をくぐって。

霧の中、糸の持ち主はどこかに姿をかくしているらしい。その輝きときゃしゃな愛すべき白い糸の正体は く も の 糸。

今日は霧と共に、私の心を捕えた美しい糸。





***



   「貴族のひみつ」


1850年、ティータイムを庭にある大きな木の下で過ごす。
春の風は私に花の香りと共に、けだるい幸福を与えてくれる。
夫は馬を走らせ、今朝早く隣村まで出かけた。

最近の私たちは、其々の人生を考えている。結婚して20年。様々な出来事が歴史書のように作られてきた。写真立ての中に微笑んで並ぶ写真や数々のアルバム。
このひとつの人生に幸福と疲れが入り混じり、全てを変えてみたくなる。それは私の癖のような危険な発想。安定期に入ると新たな道を探りたくなる。

門を開ける鈍い音。その音は週に2回やってくる庭を任せた男が、門を開ける時の独特な音。遠慮がちでゆっくりと、できれば静かに開けたいと願っている音。彼は独身でいつも犬を連れて来る。門の横に犬を待たせキスをする。
静かな男であまり笑ったり話したりすることもなく、決まった時間に来て、まじめに働いている。体格は背筋がピーンと伸びて胸が広く、時折汗を拭くときにシャツから胸毛が見える。そして足が長くゆっくり歩く。

私はこの男の後姿が好き。
ティーカップを置く音で、彼は私がこの庭に居ることを知っている。しかし挨拶もしない。恥ずかしさがそうさせているように、私を見ることもできずにいる。
彼は庭の手入れ用の用具を持ち私の横を通る。すれ違う時に彼の心臓の音が聞こえるような、湿った鼓動を感じる。それでも彼は表情を変えない。かたくなになっている。私が見ていることも彼は気が付いているはず。そんな彼を見ているうちに、いたずらな気持ちが湧いてきた。私はティーカップを足元に置き、ゆっくりと立ち上がり、庭を眺めるように歩く。彼に背を向け彼の視線をもて遊ぶように。

私の背中が、彼の熱い視線に燃えている。必ず彼は私を見ている。庭師用の小屋の前に窓がある。私は鏡代わりに彼の様子を覗いてみる。やはり彼は立ったまま、私を抱擁するように見つめている。私は胸騒ぎと混乱と悪戯な心に、自分自身が手におえなくなっている。

小屋の入り口のほこりを枝で払い、私は始めて何年も外壁だけ見ていた、この小屋へ入った。
彼は近くまで来て中の様子を伺っている。小屋の中では私の鼓動が、外では彼の鼓動が、お互いの心臓の音が聞こえる。私は小屋の隅にある小さなベットに腰かけ、自然の宇宙のリズムに合わせるように深く呼吸する。

彼は小屋の入り口で戸惑い、しかし全神経を集中させ、私の心臓の音を受け止めようと耳を澄ませている。そしてゆっくり小屋の入り口に立ち、頭を少し低くして入って来る。長身で色白でよく見ると、まだ少年のような顔立ち。
まるで生き物が感じる単なる性に呼び出されたような表情。今の彼には不安や恥ずかしさはなくなっている。

中腰になり私に近付く。そして黙ったまま私の足を取り、靴を外し包み込む。その大きな手に包まれた私の足が、小さな小鳥のようになる。彼はかまわず柔らかく包み続ける。私はため息のように大きく息をした。普通の呼吸では興奮が隠し切れなくなり、胸が高鳴り苦しい。

彼の静かな、そして堂々とした態度に、私は圧倒されている。

このままここに。
この小屋の中に。

私はアンニュイの中へ溶けていく。

貴族の秘密が語りかける危険なこの庭。




***





  「自分を解放した女」


パリ郊外にあるシャトー。先祖代々から伝わるこのシャトーを守る為に、ベルギーからの財産家のプロポーズを受けることになった。まじめでしっかり者と噂されている男。やがて両家族から祝福され盛大な結婚式となった。

その晩から、私たちは馬車で2週間の旅に出た。景色に胸ときめかせ食事に満足する旅。しかし夜は私が想像していた夫婦の生活はなかった。自然に訪れる何かを期待していた。まだ男性を知らない私は実際の営みとは、男性とは、夫婦関係とは、それらに無知であった。

自然に訪れる何か、前世からの約束、恋の予感、女性として生まれた証、その全てが素晴らしい出来事になると思っていた。しかし、それはこの旅の間、何も起こることなく、ただ表面的な平和な形が繰り広げられた。まるで教科書に載るようなお伽話の生活。

夫は女性を知っているだろうか? それとも特別な何かに囚われているのだろうか? 親からの命令、恋人からの願い、自らの戒め、宗教的な性否定? 何故かは判らない。私たちは本当の夫婦ではないまま数日が続いている。
旅も終わり日常が始まっても、それは変わることはなかった。
シャトーの生活は私の娘時代とは、まったく違ったものになってしまった。
夢を追いかけ青春を謳歌した我が家。夫が来てから私は自由を失った小鳥のように小さくなり、夢も閉じ込めたままになっている。

今日は両親が旅行に出発する。その間は私たち夫婦と数人のお世話係りが残るこのシャトー。私は最後の期待を持ってその夜を迎えた。早めに風呂を済ませ、気に入りのガウンに身を包み、髪をとかし、香水を足首とうなじに付けた。

夫は隣の部屋で本を読んでいる。時折ページをめくる音が聞こえる。もうすぐ私のそばに来てくれる。そう信じてベットに横たわる。夫が部屋に入る時、私を見て(美しい)と思って欲しい。しかし隣の部屋からは、延々とページをめくる音が続く。待つことはとてもつらい。知らない間に私は深い眠りについてしまった。

深夜、不思議な夢に目がさめ、胸の高鳴りを収める為に時間をやり過ごしていると、下の部屋で物音がする。何かを削るような音。肉を切るような、単調で定期的なリズム。
しばらくしても止むことなく続いている。世話人に調べてもらおうと思い、私はガウンを手に階段をゆっくりと静かに下りて行った。その音は世話人の部屋から聞こえてくる。

こんな深夜まで仕事をしているのだろうか? それにしても何をしているのだろう? 部屋からうっすらと明かりが漏れている。
私はそっと部屋のドアを開けた。ギーと鈍い音がシャトー内に響いて、私に警告を発しているような恐ろしい音だった。
薄明かりの中、何かが動いた。
その方向へろうそくを向けると、世話人のベットには3人の人間。2人の女と、そして、夫。私が始めて見る裸の夫。

2人の女はいつも私の髪を梳かし、風呂の準備をする娘達。

私はあまりの驚きで声すら出ない。
夫と彼女達も何も語らず、ただ驚いた目で私を見つめる。

私はここに居てはいけない。存在してはいけない。

そう繰り返し思うだけで足が自由に動かない。(帰らなければ私の部屋へ戻らなければ、この場所は私の居場所ではないのだから)やっとの思いで宙を舞うように部屋に戻ると、体中が震えだし止める事ができなかった。
どのように自分の部屋へたどり着いたのか覚えていない程、私は自分を見失っていた。何日も空をさまよった気がする。長いとてつもなく長い暗いトンネルを抜けたような。

それから、数日が過ぎ、私は自分の生まれたこのシャトーを出た。両親にも夫にも、誰にも何も告げず。ひとりで別の世界を求めて歩き始める為に。

何を説明するのか、何を求めるのか、何を肯定し何を否定するのか、私には判らない。
確かなことは 私は私を開放した、こと。
苦しみから、不可解から、矛盾から、私は私自信を解放しなければならなかった。

私が生まれた意味をこれから探す為に、存在の意味を知る為に。









*** 日本篇 ***











明治

  「小枝の羊羹」

明治時代初期の頃、私は男性として生きていた。

ある村に入った所、後方より愛らしい若いお嬢さん方の話し声。ふと足を止め、振り向きたい気持ちをおさえ、しばらくたたずんでおりました。お嬢さん方は、なにやら楽しそうに私の横を通り過ぎ、道をへだてた小さな茶みせに入っていかれました。

着物の裾のはねかえりも、まだ気にならないお年頃、どうやらお稽古の帰り。それとなく私もつられるように、その茶みせに入りますと。あのお嬢さん方は、奥のこじんまりした所に、いつも決まっているように、それぞれにお掛けになっています。楽しそうにお話も、はずんでいらっしゃる。

私はそこから近くなく、遠くなく、距離をおきまして、腰掛けることに致しました。さりげなくお嬢さん方の様子を拝見しながら、旅の疲れを取っておりました。
ぼう然とただ時間にまかせたこの空気に、何かしら嬉しさがございます。この地に着いてからは、小料理屋でお酒でも頂こうかと考えているところでしたので、いつもとは異なるこの空気が、私にとりまして新鮮でございました。しばし時を忘れております。

ふとお嬢さん方の不思議な行動に、いつものぼんやりも覚めまして、その様子を覗いますと。おかけになりました所には、形の良い小枝がございまして、それに小さな、いかにも品の良い物が、いくつか美しく結ばれておりました。お嬢さん方は其々に、慣れた仕草でその結びをといて、愛らしいお口に運んでは、クスクスと笑い、楽しそうに召し上がっておいででした。
 
私の周りには、そのような飾り物はございませんでしたので、気になっておりました。番頭さんの落ち着いた様子からは、きっと頂いてもよろしい物なのでございましょう。
但し書きも、どうぞめしあがれ、との言葉もございません。お嬢さん方はきっと、お小さい頃から、この茶みせに足を運んでは、知らず知らずに見つけた無言の許しと歓迎を、自然にお受けになっているのでございましょう。

お店の配慮も粋なことをなさると感心しておりますと、お嬢さん方は楽しげにお話しながら、お勘定をしてお帰りになってしまいました。私はこの空気にすっかり溶け込んでしまいまして、しばらくぼんやりを続けたくなりました。
旅をしながら書き物をしておりますと、このぼんやりできる時間が私にとりましては、大変に貴重な空間になるのでございます。余韻とおだやかな空気の内に、たたずむ機会を与えて下さった、先ほどのお嬢さん方に感謝しながら、空席になりました所を眺めておりました。いかほどの時間が過ぎたことでございましょう。

私の前には暖かなお茶が、用意されておりました。奥の人がいつの間にか気を利かせて、静かに置いて下さったのでしょう。礼も言わず私は幾分恥ずかしさを覚えましたが、ここの方ならばお許し下さるだろうと、誰にとも無く軽く会釈し、お茶を頂きました。

先ほどの空席には、あれからどなたもお掛けにならず、番頭さんも何処におられるのか、人の気配がございません。
空席に飾られている小枝は、風が通りますたびに静かに、そよそよと吹かれて誠に目にも心地良いものでございます。その小枝がちょうど程よい形に頭を下げるような姿になって、その物が結ばれているのでございます。
あのようなのは今までに見たことがございません。どこで買い求めたのかしら、どのような方がお考えになり、お作りになられたのかしら等と気になります。又その風景が、今にも物語りそうな様子で、小枝のささやきになるのでございます。

さて、と席を立ちまして、お勘定をお頼みしようかと思いますと、いつのまにか先ほどの番頭さんが、どこからともなく現れ頭を下げ、
「ありがとうございました。」と丁寧に挨拶して下さいました。思えば不要な時には姿を消す。用ができれば現れる。意思が通じる心地よさがあります。これはとても、お話しやすい方だと思いまして。先ほどから気になっておりましたことを遠慮なく、お尋ねすることに致しました。

「ごちそうさまでございました。お蔭様で旅の疲れも取れました。もしよろしければ、少々伺ってもよろしゅうございますか? 」
番頭さんは手を前に合わせたまま、頭を下げ了解を下さったので、私は続けました。
「先ほど愛らしいお嬢さん方が、お掛けになっていらっしゃいました。あちらのお席に、風に揺れる、何とも風流な飾り物が、結んでございますね。あれは何でございますか? どちらで求めることができましょうか? 」

私の話す間、やさしく頷きながら聞いておいでになり、親切に、
「あれは羊羹でございます。」とおっしゃる。感心している私の様子に嬉しそうに続けて、
「枝を曲げすぎず、伸びすぎず、また折れません程の、ほど良い羊羹でございまして。重くなりました頃には、先ほどのようにお嬢さん方がお召し上がりになりますので、自然に具合がよろしいのでございます。もしご入用でございましたら、ちょうど使いがございますので、その羊羹を作っておりますお宅まで、ご案内いたしましょう。この近くでございますので、お客様もお疲れにならない距離でございます。」とお誘い頂きました。

番頭さんのご親切に恐縮いたしましたが、なんせ興味が沸きまして、もはや知らないままでは、いられなくなりました私は、
「ごついでならばよろしいが、番頭さんもお忙しいことでございましょう。他にもあのような姿の良い羊羹がございましたら、私ひとりでも旅のついでに立ち寄ります。」と申しますと、

「この羊羹は他では手に入りません。」とのこと、益々私の興味は大きくなりまして、
「ではご案内い頂きますように。」と、感謝をこめて申しました。
ちょうど近くまでのごついでならばと、一緒に足を合わせておりましたところ。
番頭さんは、
「ここらで私は。」とお別れの言葉をおかけになった。続けて、
「ここからはお客様お一人でも、簡単でございますので。」と、道を2つに分かれることとなりました。番頭さんは振り返り、
「この先は真っ直ぐお進みなさいませ。羊羹を作っておられる家は、看板もございませんが、すぐにわかります。貴方様なら必ず見つかります。」とおっしゃった。そしてさっさと別の道へと消えてしまわれた。

ふと、お尋ねしたいことがまだございましたが、もうすでに姿が見当たらなくなってしまわれました。番頭さんの案内によれば、すぐに解るでしょうとのこと、まっすぐに歩いておりますと。小さな路地がございまして、そこの空気だけが静かに美しく感じるのでございます。周りの空気とは異なり、先ほどのそよそよとして、なんとも心地の良い感じがしてまいりました。

その突き当りには、お庭がございました。その奥に石段がございまして、玄関を桜の木が涼しげに囲んでおります。このお宅に間違いございませんでしょうと、確かな感じを抱いて、玄関先までまいりました。



 2


きっとこのお宅だろうと様子を眺めておりました。しかし人の気配がございません。さて、どうしたら宜しいのやら、自分の推量を確かめる何か印があればと思っておりますと、奥よりしとやかな声が、
「もし、もし。」と聞こえてまいりました。其の声は澄んでいて優しげな女性の声でした。
私は勇気を出して、
「少々お伺いしたいのでございますが、こちらは、」途中まで話して私は息をつなぎました。奥からのれんをくぐって現れた女性に、目まいを感じたのでございます。薄青いかげろうのような着物に、身を包んだ色白な細い体、白い足袋に紺色の帯、髪を綺麗にまとめ白魚のような、指がのれんを上げている。いつかどこかで見たような、いいえ、何度も見ていたように思うのです。

緊張して話ができないような気が致します。それでもやっとの思いで
「羊羹を、お作りになっておいでですか? 」とお尋ねいたしますと、其の女性は少し恥ずかしそうに微笑んで、
「はい、さようでございます。」とおっしゃった。
その時、私の体に稲光に似た何かが、走り抜ける思いが致しました。

私はこのような始めての土地で、知らない方に、懐かしさと嬉しさを感じている。
そんな私自身に驚いておりました。
私がこの村に足を入れた時からのことを考えますと、随分長い人生を歩いたような不思議な気が致します。私はこの方にお会いする為にこの村に来た。その為に今までの道があった。そう思いました。
私が言葉を無くし、呆然と立っていますと、
「羊羹がご入用で?」と小さな声でお尋ねになりました。
「先ほど、始めてこの村にまいりました。茶みせでご紹介頂き、あつかましく此処まで来てしまいました。ぜひ羊羹を分けて頂きたいのです。」と申しますと。
「本日はただひとつございますが、すでにお求めになる方が、もうじきいらっしゃるのでございます。」と申し訳なさそうにおっしゃる。

私はおじゃまをしてはいけないと思いまして、心残りを押さえて、お辞儀をしておいとましようと致しますと。
「せっかくご遠方よりいらして、それでは申し訳がないので、これをお持ち下さいませ。」とおっしゃり、形のよろしい枝に小さな羊羹を結んで下さいました。私は婦人の白く透きとおる手に、うっとりしてしまいました。

私の心を読まれぬように
「いかほどですか? 」と御代を、お尋ね致しますと、
「最後のひとつでございます。ご希望の数をご用意できませんので、御代は頂戴する訳にはまいりません。」とおしゃる。親切な言葉に何と言うべきか考えておりました。
答えを見つけるまでの間、この近くの景色に目をやりますと、先ほどの懐かしさが、またうんと強く感じるのでございます。
この土地の空気と穏やかな時間の流れが、私を包みこみました。
このような日は、多くの旅をしていましても、幾度かあるわけではございません。
嬉しく離れがたく、居心地がよく、何年たっても此処にいたい、忘れることができない。と強く思うのでございます。

婦人はいつの間にか、部屋の奥から何やら手に持って戻っていらっしゃいました。
「もし、お時間がございましたら、私の絵でもご覧になられますか? 」とおっしゃって、大切にしまっておられたご様子の、美しい日本紙に包まれた1枚の絵を見せて下さいました。そこには婦人の肩を抱いた、私に良く似た男が微笑んでおりました。

小枝の羊羹に誘われて、私はすべき旅をしたように思います。
この旅は、本当に偶然なので、ございましょうか?






大正

  「こぶしの愛」



青い空に真っ白な雲がゆっくりと流れている春の日。
片田舎のあぜ道から畑を一周りして、街道へ出て行く1台の黒い車。
ハンドルを握るのは白い手袋に、水兵さんのような帽子を被った男。この町の町長さんのお抱え運転手。ピカピカに磨いた車を、毎日決まった時間に決まった道を走らせる。

今日はいつもとは違う道順を指定され、いつもとは違う心持ちでハンドルを握る。
道は狭く、でこぼこしている。せっかくピカピカに磨いたのに砂誇りが黒い車を灰色に染めていく。フロントガラスから見える車の先の汚れが気になる。

ゴツン。と鈍い音がした。

運転手は我に返った。車の周りには驚きと不信に満ちた目をした少年達が、運転手を見ている。この少年達はどこから現れたのだろう? ほんの一瞬の間、運転手は自分が存在していなかったような錯覚に囚われていた。
景色も空気もいつもとは異なる次元に入り込んだような、空の世界の中にいて、突然の異様な音を聞き、突然現れた少年達に囲まれている。

少年の一人が、叫んだ。
「大丈夫か? おい、大変だ! よっちゃんが怪我をしている。だれか! 医者を呼ばなくては。」その声に運転手は、ゴツンという鈍い音のなんであるかを察して、体が震えだした。
震える手でドアを開け、運転席から降りる足も宙に浮いたようにおぼつかない。
後輪右側に少年が倒れている。

あぜ道には、つくしが生え、畑は太陽を受けキラキラと緑を躍らせている。少年は石ころを含む砂の地面に力なく倒れ、運転手からは顔は見えない。小さな背中を丸め、半ズボンから伸びた細長い白い足が2本そろって、まるで昼寝でもしているように横たわっている。

音の無い世界。太陽だけが生きている世界。

運転手は少年を抱きかかえると、ぐったりと頭を運転手の胸に、耳から血が滲み出した。あわてた運転手は車の後方座席に少年を寝かせ、彼等のうち一番背の高い少年に一緒に乗るように言った。


                  2


夕方になると家では子供たちが、お腹を空かせて其々に、
「きょうの夕飯のおかずは、なあに?」と尋ねる。母は台所を忙しそうに白い前掛けをして、着物の襟の後ろに結びがあり、もう一箇所は帯の下に、後ろ手に結ぶはずなのに、いつも綺麗なリボンになっている。

父は夕飯前に風呂に入り1日の仕事の疲れを取り、艶のいい顔で浴衣に着替え、ちゃぶ台の奥に座る。母は父のつまみと1本のおちょうしと、ひとつのおちょこを丸い木の盆にのせ
「ご苦労様でした」と囁く。父は聞こえるか聞こえないかの小さな、そして母だけに聞こえるいつもの声で、幸せそうに貫禄を持って、
「うん」と答える。

「よっちゃんは? 」茶碗を揃えるのを、いつも真っ先に手伝う次男がいない。
母は長男に尋ねた。
「いつもの時間に、学校から帰りましたが、友人が迎えに来て一緒に出かけました。」
「せっかくのお料理が冷めてしまう。子供達、先に箸を始めなさい。」と母は
言いながら、玄関までいって外を眺めている。

ガタゴト、ガタゴト、遠くの方から車の音がする。その音はだんだん近ずき、こちらへ向かってくる。母はいつもにはない、異様な空気が流れていることを体で感じている。
その母の後姿に同じ波長を感じた長女が、ちゃぶ台から席を立ち、玄関に立つ母の後ろに寄り添う。車はどんどん近ずき家の前で止まった。黒塗りのりっぱな車から運転手が降りて、後方から長身の少年と、よっちゃんが支えられるように降りた。よっちゃんは頭に包帯を巻いている。

母はふらふらと体のバランスを崩したが、すぐにしっかと立ち、息子の前まで駆け出した。何も言わず息子の体を見る。手、足、背中、包帯の下の顔。生きていること、自分の足で立っていることを確認すると、

無造作に怪我のなさそうな息子のおしりに、こぶしを振り上げた。

その行動に運転手は驚き
「申し訳ありません。」と叫んだ。

母のこみ上げる愛のやり場のなさが、この驚く行動へと走らせたことは、誰の目にもわかった。母がしなければ父がした。この行動の意味を子供達もわかっている。生きている、怪我をしても回復すればまた、いつもの暮らしが継続できる。

失いたくない頑固な家族の愛の形。
この家族でしかできない生活のひとつひとつ。
息子は泣きながら母にしがみついた。
運転手は深々と頭を下げ、こみ上げる涙を白いハンケチでぬぐった。








糸つむぎの音


タットン、タタタン、タットン、タタタン。
一定のリズムで繰り返される美しい音。ここは1960年、岐阜県武芸川町谷口。

糸つむぎの少女は近所で評判の娘。隣村からも、お嫁に欲しいと言われる美しい娘。そんな噂もおかまいなし、彼女はただ魅せられたように毎日、タットン、タタタン、タットン、タタタンと繰り返す。

音がする部屋には三角に尖った木が寝かせてある。2mほどの長い木。その木には色々な華やかな糸が巧みに絡まっている。手前の駒を向こう側へ、向こう側の駒を手前に、絹糸が巻かれた駒を交差させる。タットン、タタタン、タットン、タタタン。

娘はゆっくりそしてリズム良く、この音を響かせる。タットン、タタタン、タットン、タタタン。

この音がひとつ鳴ると、ひと組の色が絡み合い、幾重にも重なり紐になる。それは何日も繰り返され、やがて帯締めとなる。娘のつむぐ糸は輝くように帯の上で結ばれる。タットン、タタタン、タットン、タタタン。

この音から離れられなくなった娘は、やがて、結婚の話も無くなり、ひとり幸福な人生を過ごす。タットン、タタタン、タットン、タタタン。

家に入る時は、小道をぐるりと周り裏庭から入る。いつも磨き上げた艶のある木の床。奥のこの音がする部屋に上がると、部屋の真ん中に幸福を共にする木があり、その右側には大きな糸まき機がある。タットン、タタタン、タットン、タタタン。

幸福の木の前には、座布団がひとつ、ぽつんとある。そこに座ると正面に障子。開けると胸の透くような静寂の世界が広がる。森に続く緑の園と、大川と呼ばれる美しい川。深く澄んだ水が流々と流れている。

この景色を眺め、タットン、タタタン、タットン、タタタン。
繰り返す日々、緩やかに時間が過ぎていく。
時折、小鳥が窓側に来てチッチチチと話しかける。

糸つむぎの音は、美しい娘の人生を悠々と独り占めしていった。
やがて娘は老婆になり、たったひとりで、タットン、タタタン、タットン、タタタン。
蓄えた財産を残し娘は土になった。

今も聞こえる、美しい音。細く綺麗な白い指は、幸福の中、シワのある指に変わり、土となる。タットン、タタタン、タットン、タタタン。








望まれて 花  


大正時代、オリハは地主の長女として青春時代を過ごしていました。
上品な小さな整った顔に華奢な細い腰を持ち、すらりと伸びた長い足が人目を引くことに恥ずかしさを感じていました。この時代、街の中を行く女性は少しずつ着物から洋服へと変わりつつありました。

オリハは街を歩く女性達のようにスカートを履くことはめったにありません。まして男性と語るような心を持たないでいました。
街にはハイカラな喫茶店ができました。若い人がコーヒーという苦い黒い薬のような飲み物を飲んで、話したりしています。
オリハは妹と二人で買い物の帰り、喫茶店を覗いて見ましたが入ることはしませんでした。自ら活発に流行を実行することもなく、又望んでもいなかったのです。読書が好きで部屋に閉じこもり、自分でも日記などをしたため、密かに手帳を入れた引き出しに、鍵を掛け秘密の日記として、相談ごとや好きな作家の名を書いて静かな時間を楽しんでいました。

ことに夕陽が長い影を落とす頃、庭の木を移す障子を前に座り、読書の合間にそのゆれる影を見て本の世界を空想する。そんな時間は最も好きでした。風に揺れる美しい影はオリハに生きる喜びを与えてくれました。庭の向こうで近所の若者達が今流行の作家の話をしたり、女性を描いた画家の話をしているのが聞こえます。内容を聞いているだけで、とても恥ずかしいことなどを笑いながら、男性も女性も語り合っています。やはり、今の話題には入っていけないと思うのでした。

オリハは恥ずかしがりで外に散歩に出るだけで、近所の人の視線が刺さる様に感じます。道を楽しく歩くことは、ほとんどありませんでした。せいぜい裏口から御用の人が出入りする時ぐらい、偶然に人に接するのでした。
「いやあ、今日はついている。お譲さんのお顔を拝見できて、実に幸せな日でございます。」などとおせじを言われ、
「ご苦労さまでございます。」と労をねぎらう言葉だけで精一杯でした。

{かどせい}と呼ばれる和菓子の店を経営している両親の元で、オリハの生活は問題の無い静かな暮らしでした。母屋から店先まで、街の角から角までの地主ということで、本当の屋号ではなく街の人々が付けた{角にある菓子店の角せい}で通じていました。

オリハの学校への行き返りには、お手伝いの留吉が送り迎えをしていました。彼はもう祖父ほどの年で、若い頃からでっち奉公の末、最も信頼できることから家族同然になったのでした。通学の道ではオリハから言葉をかけない限り、自分から言葉を発することもなく、慎重でおとなしい人物としてオリハが生まれた時から、安心して任せられた人物です。オリハは留吉と一緒の時だけ安心して外を歩いたのでした。

ある日、父の得意先から自転車などという珍しい乗り物を紹介され、オリハは庭で試してみました。ペダルを踏むと踏んだ足の方へ倒れます。何度も試して、とうとうヒョウロヒョロしながら、なんとか乗れるようになりました。とても気に入りました。それに一人で街を早く走ることができる。いつも人の目が気になり、もっと早く進む方法は無いものかと思っていたので感激しました。
「これからは、自由に行きたい所へ行けるわね。」等と妹と交互に庭の中を試し乗りしては、オリハの心は徐々に、若者らしくウキウキとした、楽しみを感じるようになり、外へ向けて走ってみたくなりました。
毎日練習して、うまく方向転換もできるようになり、明るい笑顔を見せるのでした。オリハは急に活発な心持ちになり、大きく広がる世間をもっと見たいと心をときめかせるのでした。オリハは、初めてひとりで外を走ってみました。
空の色が今までより、ずっと青く輝いて見えました。人々も振り返りオリハを見ますが、今までのように恥ずかしいとは思わなくなったのです。人の視線が怖くなくなったことは、さらに自分を大きく感じさせてくれました。

やがて、街の中を自由に走り回るオリハは、すぐに街中の評判になりました。美しく明るいお嬢さんと有名になりました。今までの静かな、ただおとなしいだけのオリハは人目につくこともなく、単なる噂話にのぼるだけで、ほとんどの人が顔を見たことがなかったのです。
「なるほど、噂どうりのお方だねえ。」と噂はさらに広まって、隣街の町長さんから長男の嫁にと申し込みがあったり、急にオリハの話で持ちきりになりました。

父は無口になり、自転車の使用をしばらく禁止しました。オリハはおとなしく従いましたが、自由に風を切って走った感じが忘れられなく、
「結婚などの話など頂かなければ、私は自由でありましたのに。」と残念に思っていました。

街の噂はオリハが自宅に引きこもった後も、耐えることなく益々広がり、遠くの街からも、ひと目お会いしたいと若者が家を訪ねるようになり、家族は困ってしまいました。何故なら、嫁がせる訳にはいかないからです。家を守る長女としてオリハは養子婿と結婚することが条件になっていたからです。まだその婿も決まっていないうちから、若者が大勢、角せいに訪れる等とは、両親にとっては喜びとは言えませんでした。
そこで、急に家と家が話し合い、遠くの親戚から婿探しが始まりました。オリハにとっては、ほんの束の間の自由が引き起こした急いだ結婚話です。義務を重んじた家の考えは、若いオリハには抵抗することもできず、両親が決めた人と結ばれる運命を受け入れることしか選択の余地はありませんでした。

親戚の中から最もよく選ばれた青年は、長身で生まれながらに上品な顔立ちで、静かで賢く身に着ける物も派手ではなく、上等の素材でこしらえた洋服がよく似合う好青年でした。寛一と名乗り姓はオリハの家の姓を引き継ぐことも同意したということです。話は急にまとまりました。街の中に見る人々とは異なる雰囲気を持つ青年に、オリハは何かしら共通の運命を感じました。

早々に式の準備が始まり、白無垢、お色直し、かんざしが揃いました。別の部屋には様々な料理の器が、勝手口より何日もかけて準備されていきました。オリハは寛一とは1度しか会わないまま、このように準備が進んでいることに、不満はありませんでした。寛一は街で偶然に会ったとしても、きっと興味を持つ相手だと確信するほどに、素敵な人だと思ったからです。近所の人も
「ふさわしい人が選ばれたなあ。」等と口々に話している様子も、オリハの満足の理由になっていました。



  2


結婚の行事は盛大に行われました。町の中心人物達のご挨拶や親戚からの祝福、二人は式の間、お互いを見つめる時間すらないほどの大行事でした。廊下は料理やお酒を運ぶ割烹着姿の女性達で行きかい、式会場となった自宅奥座敷は5部屋のふすまを外して大広間と化し、大勢の正装した来客とで慌しい一日となりました。

そして初夜、オリハは一緒に床に入る夫のことを、まだどのような人なのかも知りません。頭の中を様々な考えがよぎっては消え、つかみ所のない不安が押し寄せてくるのでした。
床に入ることは、とても不安なのです。街で若者達が話し合っていた男女の話が聞こえるようで、何故かしら下品に思われてしかたがなかったのです。必要もない心配ごとが湧き出して、どうすることもできませんでした。それでオリハは
「申し訳ないけれど、このまま静かにひとりで眠らせて欲しい。」と夫に頼みました。

夫も快く受け入れてくれ並べてあった床を少し離し、背を向けてオリハを安心させました。好ましい夫であることに感謝しながらも、夫は私のことを本当に好きだろうか? とまた新たな疑問に悩み始めるのでした。義務で結婚したような感じもする。私を受け入れたのか、家を受け入れたのか、親からの期待に答えたいだけなのかしら? 人間と産まれて幸福とは何かしら? 
今日考えなくてもいいことばかりが頭を駆け巡り、とても疲れてしまいました。一睡もせず障子がうっすらと明るくなり始め、こんなに寂しい悲しい日を過ごすとは、自分はなんて幸福下手なのだろうと、自分を責めては、夫に申し訳ないことをしたと思うのです。

数日は何事もなかったように過ごし、周りの目が幸福を祝ってくれているようで、夫も(お嬢さん)と呼んでいたのを「オリハ」と呼ぶようになりました。オリハはこの自分の名前が、あまり好きではありませんでした。モダンな名前だと学校の先生に言われたこともありますが、夫がある種の緊張を持ってこの名を呼ぶ時は、全身に震えがくるような何かを感じてしまうのです。

(今日は床を一緒にしてみようかしら)と思ったりもしますが、初めて夫と床にいることを考えただけで、(まだ無理だわ。)と思うのです。夫といえ未だ他人という感じのする一人の男性。迷いに迷って、人生の流れの速さを恨めしく思います。

そんなある日、夫は静かにオリハに近ずき、こうささやきました。
「私を嫌いですか? でも義務がありますから、いつかは子供を欲しいと思います。」
オリハは夫のことを嫌いなわけではなかった。ただどのような人か、ゆっくり観察する時間が欲しかった。嫌いだと思ったことなど一度もなかったのです。むしろ好ましく嬉しい結婚をしたと、日々心を整えつつあったところです。

「義務」という言葉を夫の口から聴いて、なおいっそう戸惑うことになりました。夫は私の愛を必要ではないのかしら? 私のことを義務で抱こうというのかしら? そんなことが人にできるのかしら? 私はしっかりと愛を育てて本当の夫婦になりたかっただけなのに。

人生の素晴らしいと思われる時に、皆がうらやむ所に生まれ育ち、思慮深い知性も持ちながら、何故幸福を感じないのだろう。深く考えすぎるオリハは、次から次へと心配ごとに振り回され、いっそのこと何処の誰かも解らぬ人に、この体ごとあげてしまえばよかった等と、自分を見失ってしまうような疲れを味わっていました。

数日の苦しみから、オリハを解放してくれた言葉がありました。
「貴方が落ち着くまで私は待っています。生まれた時からきっと強い縁で結ばれていたと思います。何故なら、貴方が自転車で私の家の窓の下を通った時から、私は毎日、貴方に恋焦がれていました。そんな折、遠い親戚であることを、お聞きし、なんて幸福かと思っているところへ結婚のお話。
私の世界中で一番大切な人と人生を共にできる。こんなもったいない幸福が他にあるとは思えません。私が望んだ人だから。」と静かに夫は語りました。

オリハは夫の話を涙を流しながら、そして大きな感動の渦の中で聞きました。







昭和
紫の愛


広尾にある家庭的な雰囲気の撮影会社の依頼で、事務所まで行くことになった。午前5時30分、世田谷代田から小田急線のガランと空いた座席に、ゆったりと腰掛け、しばらく目を閉じる。
久しぶりの早起きは遠足のようで新鮮な気分になる。少しけだるい体と心の底に小さな期待、新しいスタッフに会う楽しみもある。窓から入る風が洗い髪を乾かし、私に不思議なエネルギーを与えてくれる。

昨日、FAXで送られてきた絵コンテに目を通し、背景の小田原に空想をはせる。ショッピングシーンと町並みを歩くシーン。解りやすい絵コンテから、監督の几帳面な性格と、ほんのりした絵から、やさしさが漂う。

代々木上原で地下鉄に乗り変える。ホームには爽やかな風が吹き、薄いブルーグレーだった空が徐々に青みを増していく。今日は天気も味方してくれる最高の撮影日和。広尾に着くと事務所前には、すでに大きなロケバスが到着していた。3人のスタッフがカメラ機材を運び込んでいる。私はしばらく事務所でコーヒーを飲みロケバスへと向かった。

バスの中にもサンドイッチやおにぎりが用意してあり、元気のいいADさんが私に好きな物を選ぶように勧めてくれる。どこか従兄弟に似た顔立ちと明るい性格が、私を安心させた。仲良く仕事ができそうだ。
小田原へ向かう間、ウトウトと浅い眠りに落ちながら、私は後方座席に大きな存在を感じていた。私は目を閉じたまま、その空気を味わった。暖かく包み込むような存在。

小田原に着くとやはり素晴らしい晴天、
「今日は予定通りの美しい空だ! 皆の心がけが、良いからだなあ。」と監督も喜んでいる。早々とバスから降り、撮影準備に走り回るスタッフ。ヘアーメイクさんも鼻歌をならしながら、私にメイクを始めた。外の準備が整うまで車内で待つ。
車窓から眺めると、皆家族のように寛いで楽しそうに準備をしている。
私は幸福なメンバーに恵まれて、仕事ができることを嬉しく思っている。

ゆったりと親切な人達の間を成功への風が吹く。今日の作品はきっと素敵に出来上がる。そう感じさせる風。そんな中、ジワーと私の背中が熱い。深い感情が行きかう独特の熱さを感じた。後方座席のあの人から。そう判っていても振り向けない。

「お待たせしました。こちらへ」とADさんの声に救われた感があり、私はゆっくりと立ち上がる。まだ私を射止めたままの熱。私は決められた順に並んだ靴を取り、足に合わせる。ぴったりと私のサイズに揃えられていることに感謝して、靴を片足につけながら、気になるこの熱の主がいる後方を振り向いた。必ず居る大きな存在を確かめたかった。

その存在は黒い大きな瞳で、しっかりと私を射止めている。視線を私に残したまま足を組み靴紐を器用に結んでいる。彼は私のかすかな不安を完全に受け止めた。私はその強く優しく熱い視線を受けて、捉えられた獲物のように、
(もう逃げられない)と感じた。そして私の人生が変わることを自覚した瞬間だった。

彼は私の準備が整う前に、静かに私の横を通って、バスから降りて行った。その歩き方は、まるでヒョウのように音も無く、風も無く、ただ存在だけをいつまでも残して、無言のまま大きな瞳を私に向けてそして通り過ぎた。
彼はメインカメラマンだと、メイクさんが教えてくれた。空撮が得意でペルーやアフリカの自然を撮ってきた、マスメディアのカメラさんだと言うことだった。そして、彼のペルーでの空撮の写真がバスの前方に貼ってあった。普段はヘリから体を繋ぐ安全ロープを絞めて撮影するらしい。彼の写真には紐は無かった。足をかけて、ヘリの座席部分から体を乗り出しカメラを担いでいる。
「落ちたら死ぬぞ。」とパイロットが叫ぶと、彼は
「君の腕を信じるさ。」と言って。ロープ無しで撮影チャンスを捕らえたと言う。
別のヘリの現地カメラマンがその様子を収め、現地でも伝説になったらしい。それ以来、監督は彼の男気に惚れ込んで、説明無しでメインカメラを任せるのだ。
私はメイクさんの話を聞きながら、さっきまで背中が熱かった意味が解る様な気がした。
撮影の間、彼の持つカメラは心臓の音がした。


2

その日以来、私の中に不思議な空間が生まれ始めた。日常に帰ってもどこか宙に浮いたような感覚が残る。
ぼんやりとした、光のような、定かではない何ものかに捕らえられたような、妙な空気を味わっていた。
それは突然何かの気配を感じるように現れる。買い物の途中に、友人とのおしゃべりの途中に、鏡の前で髪を梳かす間に、本を読んでいるほんの小さな行変えの間に、彼のヒョウのような息使いが伝わってくる。私は不思議に囚われていた。

その日から2週間ほど過ぎた頃、事務所からの連絡で箱根ロケのスケジュールが入った。
私は同じ方向の撮影で、
「又同じクルー達といっしょかしら?」と聞いてみたが、マネージャーは、
「依頼事務所は同じですが、スタッフまで同じかは、行ってみなければ解りません。」と答えた。

私達の仕事は、一期一会。その瞬間を精一杯生きる。誰と一緒に仕事をするかは解らない。スタジオ撮りや雑誌ロケなら、ほとんどメイクさんもカメラさんも顔見知りになることがあるが、コマーシャル撮りは、ほとんどといっていいほどメンバーは異なる。

「今回は事務所まで行かないで、直接撮影現場まで行きます。」と伝え、世田谷代田から小田急線各駅で向ヶ丘遊園。そこからロマンスカーに乗り変えた。
車内を歩いた時、私の背中が又、熱くなった。周りを見渡しても通勤するサラリーマンや学生、主婦、が乗っているだけで、それらしき影はどこにも無かった。
改札を出ると前回の従兄弟に似たADさんが迎えに来ていた。
ミニバスに乗って現場に着くと、別のカメラさんがレールにカメラを咬ませながら、
「おはようございます。」と手を振った。私は微笑み手を降り返した。
私は監督がいる丘の上に向かって歩き、もう一台のカメラ前まで来た。又あの熱を感じる、監督の横に立てかけてある大きなカメラがあった。レンズから外した目は、私を射止めた。
「あ、あのひと。」
私は何故か他の人にするような、明るい挨拶ができなかった。
喉を絞められたような、渇くような、そして不安が押し寄せるような、妙なバイブレーションを感じた。
彼も何も言わず、微笑むことすらしない。ただ大きな瞳で私の全てを見透かしている。私は崩れ落ちそうな脱力を感じたが、気にしない振りをして、彼の横を通り過ぎた。一瞬時間が止まった。彼から熱を受け取り、私は彼に何かを与えた。そんな一瞬だった。


3

撮影の間、私達はお互いの中心からテレパシーで語り合った。

撮影は順調に予定より早く、そして完璧に行われた。
私は、AD さんの
「ご自宅まで、送りましょうか?」と声をかけてくれたことに、ただ微笑み頭を横に振った。
「お疲れ様でした。」と皆バスに乗り込んで行った。
私はこの湖が見える場所で、少し風に吹かれていたかった。
後はひとりで山を降り、タクシーで最寄駅に、それからは小田急線の普通電車でいつまでも、いつまでも揺られていた。
家に帰ると暖かなバスタブにレモンを入れ、ゆったりと体を沈めた。
体にしみ込んでくる香りが、疲れをほぐし始め、私は大きく息を吸い込んだ。そして脳が空っぽに溶けていくのを味わった。

魔界、私は確かに、今日、魔界にいた。

絵コンテも見ないで、撮影が進められていく。打ち合わせもしないで、完璧な撮りが次々に行われていった。
そして、私の体は熱に浮かされたように、まるでマリオネットのように自然に求められる表情を表していた。

数日が過ぎて、夕陽が黄色の光を壁に投げかけ始めた時、部屋の電話が鳴った。
「あのひと。」受話器を取る前に、いいえ、ベルが鳴る前に、私は感じた。
私は黙ったまま、受話器を上げる。向こうの空気を吸い込むために。
「・・・つい声が聞きたくて・・・」彼のゆっくりと低い声が受話器の向こうで囁いた。
「・・・」私は又あのけだるさに入っていく。
「じゃま、だったかな・・」
「・・・いいえ」
「考えていた。今。とても、会いたいと。」
「・・・」
「少し、話してもいいかい?」
「ええ。」
「僕はテレパシーを受け取ったように感じた。それを確かめたくて。気のせいかな?」
「いいえ」
「やはり、そうだね。通じていた。ありがとう。」
「・・・」
「いつ、会える?」
「・・・」
「又、連絡しても、いい?・・」
「ええ」
「ありがとう。じゃあ、又。」
そう言って彼は、受話器を静かに下ろした。
その余韻は長く残った。
私は古いレコードからラフマニノフを取り出し、軽くスプレーをかけ長い間、使わなかった針を取り変え、古いアンプに線をつないだ。
2番がかかる。少し気持ちを整えたかった。この恋が始まると私は別世界へ行くような気がした。飛び込んでしまうか、現実に生きるか。しばらく考えたかった。
心が落ち着いてから、それから・・・知らない間に私は眠っていた。レコードの針が自動的に元に戻って音楽は止んでいた。私はもう一度かび臭いレコードを取り出し裏返し、針を置く、このしぐさの中に安らぎを感じた。

プライベートで会うことに、ためらいがあった。仕事の仲間と外で会うことなど一度もなかった。
なのに、私は引き込まれるように、彼の世界へ入って行った。





「ハイヒールの熱」


京王線の聖蹟桜ヶ丘。私はホームを出るとデパートにつながる通路へと向かった。外の風に当たり、久しぶりの電車で火照った頬を小雪の散る空へ向ける。

この場所は何年か前に撮影で訪れた場所。その時は足だけの撮影だった。薄いベージュのストッキングをスタイリストから受け取り、ビル内スタジオで着替える。そしてこの場所、外につながる通路の囲いになっている四角いコンクリートに片足をかける。私は膝上までスカートをつかみ上げPR用のハイヒールが美しい形に見えるようにシャッターごとに角度を変え足をひねる。

シャッター音がうまいタイミングで連写する。今日のカメラマンは5年間の仕事仲間。彼は私のエージェントのパンフレット作成もしている。私をモデル商品として高めてくれる腕を持っている。

呼吸でシャッターを切る。チャンスは必ずやってくる。待つ。掴む。

逃がすことなく捕らえる鋭い感性。レンズを外した彼の目は、恥ずかしそうで中性的な視線を持つ。ガラスのような繊細な視線。ファッションの写真を撮り続けている独特のミクロな感性がその中に潜んでいる。

私は彼のポーズ指示を待ち、なければ勝手に変える。今日も
(君の好きに動いてかまわないよ。)と彼の無言の空気を受け取り、私はちょっと危険な四角のコンクリートに飛び乗って、フロアーを見下ろす。囲いの無いコンクリートの下は直接1階が見える。彼は一瞬(危ない)と思ったようだが、そのまま私の動きを、レンズ通しで見守っている。私は彼に背を向けヒールを重ねる。きっと面白い形になっている。それは彼のシャッター音で確かめることができる。背景は高層ビルの谷間に広がる青い空。その空に向かって透明なガラスのハイヒールが宙を浮くように歩いていく後ろ姿。

彼は一気に1本のフィルムを終え、時間を惜しむように次のフィルムを入れる。繊細な感性はそのカメラを操る指先にまで現れている。しばらくシャッター音が満足の域に達するまで私は待つ。
私とハイヒールとビルと空の絵は、彼を虜にして魂の炎が通り過ぎる。やがて大きな波が通過したような空気が流れ、私はポーズを変える。彼の方を向き、足を肩幅ぐらいに広げスカートを上げる。正面からのハイヒール、後方かかとが綺麗に並ぶように、つま先を外に広げる。膝の筋肉が緊張し足もまっすぐに写るはず。彼は
「あっ」と小さく声にならないほどの息をした。そしてすぐに寝返りを打つように、体を壁に這わせシャッターを連写する。

背中が熱くなっているのがわかる。呼吸は完璧に私の呼吸と一体化している。

この瞬間だけが私の世界。
この大きな宇宙の中心に位置し最高の命を高めている。

「お疲れ様」彼は静かにレンズを目から外す。少し充血している。
いつものやさしい声で
「今日も良い仕事ができたみたいだ。ありがとう。」と言い、シャイな雰囲気に戻っていく。

カメラを持つと彼になり、外すとシャイな誰かになる。
彼はこの仕事の為に生まれたような人。
人生が向こうから仕掛けてくるような、そしてその虜になり燃焼する。

私もその仲間。引き込まれ、取り付かれ、夢中になる。仕事が終わると抜け殻になる。
あの時のカメラマンは、今シンガポールで活躍している。

私は久しぶりに来たこの場所で、又あの熱が蘇えり、思わずここまで階段を駆け上がってきた。空からは白い小雪が風に舞って降りてくる。そして熱くなった私の頬を冷やしてくれる。
命の燃焼。人生の長さより高まりを求める。熱い時、私は生きている。









「2度、生まれた女」

1度は母体から人として産まれ、2度目は自ら意識の中心へと生まれる。

27歳の秋、あまりの苦しさに身をもがき考え続けた。
「私は何の為に存在しているのだろう?」
幸福とは、夢とは、人生とは、愛とは、生きるとは、存在の意味とは。

自分を押し殺して他人の幸福の為に人生があるはずがない。
見せ掛けの幸福に何の意味があろう。私が苦しむことを誰が知ろう。

誰の為の人生か。自分の人生か。
他人が幸福ならば自分も幸福であり、夫が幸福ならば自分も幸福であるのなら、
何故、私はこうまでも苦しい日々を送っているのだろう?

犠牲の上に誰かの幸福があるというのか。本当の幸福とは何の犠牲も欲したりはしない。何故、私は生きたまま死んでいると感じるのだろう。生きなければ。
自分の人生はまだ何も起こっちゃいない。
これから始まるというのに何故、諦めなければならないのだろう。

彼らは私の幸福を知っているというのか。
どうしたら幸福になれるのか、知っているというのか。
考え、又考え、深い穴の中に落ちて行く。

遠く、はるか遠くに一筋の光が射す。
導き励ます声が聞こえる。
「底まで来た。もう限界だ。自分を信じて登り始めるがいい。」
「誰が後ろ指を指そうが、かまわない。信じて生きる。必ず幸福が来る。」
「必ず目の前に、すぐ手の届く所に、幸福が待っている。自分を信じろ。」と声が聞こえる。
確かな道は何もない。保証もない。ただ
「自分を信じろ。」と聞こえる。

私の行いは誰にも理解できないかも知れない。気がふれたと思うかも知れない。
かまわない。それはいずれ時間が伝えてくれることだから。幸福になる権利を。
持ちたまえ、自信を持ちたまえ、助けたまえ、私を信じる強き心を与えたまえ。

まっすぐに、考えたように、信じたように、感じたように。ただひたすら真っ直ぐに。そして、私は長い暗い苦しいトンネルを抜け、私自信となった。

本当の私となって生まれ変わった。

もう怖くない。偽りの殻を脱ぎ捨て、胸を張って
「私は生きている。」と叫ぼう。
私が生んだ私なのだから。







「帰りたい」 


もう何年も聞かなかった声、しかし忘れることも出来ない声。
電話口で静かに
「帰りたい」とだけ告げたその声は、数年前、突然飛び出して行ったきり会うことも無く、別れたままの妻のそれだった。

(何があったのか、今どうしているのか? )等と簡単に聞くこともできず、ただ無言で次の言葉を待つしかなかった。電話の向こうで、ためらいと後悔の風が漂っていた。
(何故、今帰りたくなったのか? )そんなことはどうでも良かった。
会えるのなら、そして又一緒に暮らせるのなら。

私にも迷いが出てきた。どうするんだこれから。何を欲しがっているのだ。
私にどうして欲しいのだろう?


初めて妻に会ったのは妻の叔父の紹介だった。彼は私の会社の取引先社長ということもあり、会うのをためらったが好奇心が勝り、社長夫婦と彼女とその両親とで会食した。こじんまりとした上品な料亭の1室で、やや緊張した雰囲気の中、社長夫婦が楽しくしようと色々話を盛り上げてくれた。
其の日は充実した日に思われた。私にとって人生が変わる、大切な日のような気がした。社長の姪も私のことを気に入ってくれた様子が、恥ずかしそうに微笑む仕草から受け取ることができた。


完璧な箱入り娘だと解る。目が合うだけで頬を赤らめ言葉すら発するのが難しいほど、男性に慣れていない。そんな風に私には感じられた。同時にありがたかった。処女だ。間違いなくそれに違いない。女子高、女子大。男性と接する機会を持たない環境に閉じ込められた様子が伺われる。
何故、私にとってありがたいか。男性経験が無いことは、ほどんどの男性にとって興味の対象になるらしいが、私の場合は少々異なる。

つまり私自身も女性経験に乏しい。それに性的にあまり興味が無いのだ。そのことが原因で交際を始めても、すぐに続かなくなることが常だった。彼女ならばきっと、そのことに関係なく結婚ができるかも知れない。(女性は経験し始めると必要になる。)と友人から聞いたことがある。(知らなければ知らないで暮らせるものだ)と。しかし、わざわざ積極的に結婚することもないか。と気楽に考えていた。

お見合いから数週間が経ち、彼女の叔父から会議の打ち合わせの連絡があり、必要事項の用件が済むと、彼は私に尋ねた。
「その後、どうかね?」
「えっ?」
「この間の件だよ」
「、、、」
「姪とはデートを楽しんでいるかい?」
「その後、お会いしていません。」
「、、、気に入らなかったのか? それとも断られたのかい? 」
「いいえ、そのどちらでも無く。連絡は未だ、していません。」
「会いたければ連絡した方がいいぞ。まあ、もっともプライベートなことに首を突っ込む気は無いが、今は大学生だが卒業したら結婚の申込みが殺到するぞ。」
「はあ、おじゃまでなければ、其のうち連絡してみます。」とだけ答え仕事を続けようとしたが、そうか卒業まであと数ヶ月か。少々焦った気分になる。

色白で素直な性格、処女。今時、他の女性には無い雰囲気を持つ彼女が別の男性に取られてしまうのは、やはり考え物だな。私は手に汗を感じながら彼女の家に電話をした。受話器の向うは静かな年輩の女性の声。一通りの挨拶を済ますと、その人は祖母だと名乗った。すぐに彼女を呼んで嬉しそうな空気が電話口から伝わってきた。家族で私のことが話題になっているらしい。
それもポジティブに。

彼女は私の者だ。と其の時 感じた。





  2


晴れて私達は、両方の家族から大きな期待と喜びに満ちた結婚をした。あれから色々なことがあった。彼女はいつか女性の満足を得る旅に出るかも知れないと思っていた。やはり心配したように誰にも何も告げず、私の元を飛び出し数年が過ぎた。私は今でも独りでいる。


「帰りたい」の一言から、次の言葉が出てこないまま、受話器も置かずそのまま空気が変わることを待っている。彼女は私の返事を待っている。

男性を知っただろう。長い旅だったろう。傷付くこともあっただろう。今、彼女は電話の向こうに居る。私は全てを受け入れることが多分できるだろう。しかし、彼女は疲れているだけで、本当は帰りたくないかも知れない。疲れを癒したら又、出て行ってしまうだろう。それとも一生私と暮らす覚悟だろうか。どう答えればいいのか、私は何を言うべきなのだろうか。

3

雪の降る夜に鈴鹿までドライブしたこともあった。
「夜景が綺麗だからロマンティックな所だぞ。」と同僚から聞いて行ってみたいと思っていた。彼女をドライブに誘うと、嬉しそうに恥ずかしそうに、そして素直に就いて来た。途中の道に雪が降り始め、道路が冷えているのか雪は溶けることも無く、宝石を散りばめた様に白い玉となって泳ぐように道路を転がっている。
「綺麗! 雪がこんなに綺麗にダンスを踊るなんて! 」
初めて彼女の声をしっかり聞いた瞬間だった。ロマンティックな幻想的な風景にすっかり魅せられたようだ。感性も繊細なのにこんなに早く結婚して大丈夫なのだろうか? 未だ大人として熟していないような気もするが。
私は、他の男性にこの純粋さを奪われることは、ぜったいに許せないと思った。

彼女はやはり初めてだった。

結婚後半年が過ぎ、彼女は少しずつ自分がした結婚を考えるようになった。普通ではない自分の結婚生活を知るには簡単な情報社会。友人のその生活とはかけ離れた内容、週刊誌に載っている夫婦のあり方等の記事やエッセイを目にすることも有るだろう。
自分の結婚生活とは言葉ばかりで、現実には夫婦ではないかも知れない。何の欠点も無いはずなのに、夫婦としての事が行なわれていないことに疑問を持ち始めただろう。

痛いほど解る。口数が少なくなり考え事をしている。明るく楽しい会話も徐々に少なくなった。時折、胃が痛むのか胃の辺りを押さえている。青白い顔でまったく病人のようになってしまった。何も言うことなく一人で苦しんでいる。しかし私には何もできない。

義父に連れられ内科へ行ったと聞いた。その結果も説明しないまま、彼女は一人寝室へ入ってしまった。翌日、私は義父に会社から電話をしてみた。
「昨日は、晴子を病院まで、ありがとうございました。どんな具合ですか? 一緒に行けなくて失礼しました。」
「ああ、あまり心配するな。単なる胃潰瘍だ。十二腸潰瘍もあるらしい。が手術は必要なさそうだ。これはちょっと時間がかかりそうだが。薬で落ち着くだろう。」義父との話の中からは、彼女は私達の夫婦生活について話さなかったようだ。しかし、病気になるほど考え込んでいる。

4

「帰りたい」とは、こんな状況を又続けても良いということなのか。私は何もあれから変わってはいない。それでも私と一緒にいて幸福ならば、(帰って来い。)と言いたいが言葉にならない。それを察したのか静かに受話器が下ろされる気配がした。(待ってくれ、切らずに待ってくれ。)私は喉の奥でそう叫び、受話器が完全に置かれるのを聴いた。

帰りたいと言った。簡単ではなかったはずだ。彼女なりに何か考えた結果、決心しての「帰りたい」だったはず。又私は彼女を受け止めてやれなかった。2度も幸福を与えるチャンスを目の前にして、私は何もできなかった。





ないしょ  


岐阜県各務原市の新公共団地の5階、私は妊娠中の大きなお腹を抱えて、階段を登る。夕食の食材が、指を切るほどの重さで、指先を凍らせていた。
一歩ずつ階段を上がる度に、お腹が大きくなったことを、太ももで測ることができた。今日の美容院の売り上げで食材を買い、今月の家賃の振り込みも済ませた。

母が経営する美容院の支店を預かり、仕事が嫌だとか自分に向いているとか、将来の夢は等、自問すらしなかった。この家に生まれた運命だから、その流れに沿って学習していけばいいのだと、興味のあるものに使う時間は、ほとんどなかった。

大学も出てある程度満足な生活も体験した。後は恩返しのつもりだった。得意科目が心理学や倫理であったところで、何の役に立つだろうかと思いつつも日々自営に専念した。

父は市議会議員を4期目に迎え、実家は活動の協力者で活気付いた。私は隣の市民で父に投票することができないことを悔しく思った。父の選挙中だけは何かの役に立ちたい。私は心から喜んで実家での手伝いをした。
実家にいる間は、私の部屋で古い本を読んだりした。懐かしい教科書等もそのまま本箱にある。学生の頃のアルバムもその隣にひっそりとある。
私の青春を考えると女子高、女子大、美容院経営とまったく女性社会の中での生活なのだと思った。男女で一緒に写った写真は中学生で止まっている。
後の写真は全て女性ばかりの思い出。卒業と同時にお見合いで結婚。私は自分の部屋で、今までの自分を振り返ると寂しい思いがした。

2


階段の途中で呼吸を整え、重いビニール袋を持ち変えた。
立ち止まりちぎれそうな紫色に変色した指を息で暖めた。自分の人生を振り返えると、随分方向が異なる遠い道に私は居ると思った。結婚、子供、仕事。全て先へ先へと進んでいるレールの上にいた。

私の実家には、私の部屋がそのまま残され、仕事にも家事にも子育てにも問題のない環境だったが、私の両親との同居は、養子でもない夫のプライドが許さなかった。私はそのことを理解し受け入れた。それで今日はその団地の家賃を払いに行った。ムダな使い方だとは思う。通勤時間はかかる、狭い、階段の5階なのにエレベーターは無い。仕事をしながら、買い物、その上夕食の支度、全て私一人で行わなければならない。お腹には後2ヶ月で産まれてくる子供がいる。夫は手伝うこともしない。私に出来ることを一生懸命することだけを思っていた。何故、結婚したかすら考える時間を持たなかった。

山を壊して建築された団地に私達は暮らした。ある日、寝室に大きなムカデが入り、それは寝ている私の体をいきなり這い始め、驚いて飛び起きた私の背中よりの肩を射した。激痛が走った。何処を刺されたのか、はっきり解らないほどに背中のいたる所にしびれる様な痛みが走る。

夫は、私の背中に口を付け吸いだすようにした。
その後、会社へ連絡し今日は出社が遅くなるとを告げた。
「口に入った毒を、吐き出さなければ。」と私が言うと、
「ああ。」と言ったきり、着替えを始め
「病院へ行くぞ、痛むか? 」と聞いた。
私は驚きと痛みと初めての体験で動揺していたが、着替えを済ませ、健康保険書を引き出しから取り出し、仕事用のバックに入れた。私も店に遅れることを母に伝え、私が担当している支店に、本店から動ける人を手配した。
病院へ付くと、ドクターに事情を話し、治療をひと通り終えた。
ドクターは椅子に腰掛け、私と夫をじっと見た。
私はこの視線に、はっきりと不信な空気があることを受け取った。その不信は何から来るものか、私はすぐには理解できなかった。
ドクターの質問が2-3あった。
「痛みは?」
「はい。ズキズキします。」
「しびれは?」
「あります。背中全体のように、場所がはっきり解らない痺れを感じます。」
「ムカデの大きさは? 色は? 」
私は大きさを知らなかった。部屋から逃げ、ドアのそばで座り込んで、呼吸を整えるのがやっとだった。
それを思い出しながら数分の出来事を、まるで長い人生のような迷いの中で、何かの助けを求めている自分に気付く。

「10cmほど、ありました。」と隣にいる夫が答えた。
「色は背中が黒く足は赤茶けた色です。」
夫は私の背中を吸う前に、新聞紙をくるめてムカデを叩いていた。そして、窓を開けて外へ棄てた。私はその姿を思い出していた。

ドクターは回答ごとにカルテに書き込み、しばらく考え込んで私を見つめ、そして夫を見つめた。静かに呼吸をして、私に
「肩の赤いシミはなんですか?」
「・・・・」
「キスマークのような、吸った後がありますが、」
「ああ、それは、夫が、私の体に菌が回らないように、吸ってくれたものです。」
ドクターは私をじっと見た。その目は私が嘘を付いているのか、もしくは、何か別の回答を待っているような視線だった。不愉快なといっていいものか、又は私に真実を告げる前触れのような、重い空気だった。

「だとしたら、場所が違う。」とドクターは、はっきり言った。

私は訳が解らなかった。
場所が違う。菌が入る場所、刺された場所、夫のキスマーク?
夫は私にこの時以外には、キスマークなど付けたこともない。
結婚してからずっと、そのような想像できる私達の夫婦生活ではない。
ドクターの問いかけは、このキスマークは夫婦のものか、それともムカデ事件に関係しているかの問いだったのかも知れない。
私は遠い過去の記憶から、私という人間の存在価値について、自問しては打ち消してきた、この道につながる質問だと気が付いた。

3

夫は、毒を吸う振りをした。私を助ける演技をした。

もし、夫にとって私が、かけがいのない存在で愛が伴っていたら。そう考えながら私はドクターに話しかけていた。
「ムカデの刺した跡が、見つからなかったのかも知れません。」
私は自分の背中を未だ見ていない。刺されたと思っただけで大した傷も残さず、ムカデは私の肩をすり抜け、ちょっとかすって、私に痺れと痛みを与えたのかも知れない。
ドクターは又、私をじっと見て、
「穴は2つ、はっきりと付いて赤くなっている。刺された時も色はまだ変わっていないにしても、穴は見つけることはできる。」というと今度は夫を見た。ほんの一瞬だったが。

私は帰り道、無口になった。普段も夫との会話は多くはないが、今日は特に自分とゆっくり話してみたかった。今までの私のラビリンスの解明に、今日の出来事は役に立ってくれるかも知れない。怖いようだが、勇気を持って自分の人生を省みることを始めてみようと思った。
結婚して以来、目をふさいで見つめようとしなかった小さな問題の数々。何故、抱かないか。何故、会話がないか。等の心の奥で苦しんできた質問に、自問自答を始めてみよう。

実家がある本店に戻ると、母が心配していた。
「背中にムカデが、はって大変だったの。」と私は大げさに笑いを含めて、今はこのように元気だからと母を安心させた。私の店も本店からの助っ人で何とか問題なく動いているようだし、久しぶりに祖母の手料理をのんびり味わうことにした。
だが、キスマークがムカデの穴とは別の所にあったことは内緒にした。
このことを話せば、家族の今までの平和は不信の色を混ぜることになる。
私の胸に収めて、私は自分に相応しい人生は何かを考えなければならない。
この一件で壊れるような人生ではないはず。もっと奥にある。根源的な私の命や魂が満足する道へ、つながるかどうかの検討を始めなければならない。







「蜘蛛不在の蜘蛛の巣にかかった蝶」


汚れを知らぬ産まれたばかりの美しい羽を持つ蝶が、蜘蛛の巣にかかっている。
羽ばたいても動けない。心を遠くに願ってさらに羽ばたいても自由になれない。
時々は諦めじっとしている。又頑張って羽ばたこうとする。
美しかった羽はどんどん形を変え、もう飛べなくなってしまうだろう。

ほんのつい先までは、きらきらと輝く羽を自由に大らかに広げ、未来の素晴らしい世界へ羽ばたこうとしていたのに、まだその夢も叶えることなく、今も此処に居る。
蜘蛛がいればまだ救われる。食べてくれさえすれば生きた意味があるというもの。
美しい蝶を食べる蜘蛛を恨んだとしても、生命の営み。自然のなせること。

蜘蛛不在の蜘蛛の巣は何て残酷なのだろう。捕まえて自由をなくし、放置される。蝶は諦めてしまったのだろうか? あの美しかった羽はすっかり無残に形を変えてしまった。
もうだめだ。遅すぎる。どうしようも無い。このまま死んでしまうだろう。

あきらめの中、突然風が吹く。大きく木が揺れ蜘蛛の巣がゆがんだ。

あつ! 蝶が!  と ん だ ! 空に向かって飛んだ!

ふらふらしているけれど、しっかり自分の羽根で飛んだ。なんて美しい光景だろう。
周りを飛ぶ、どの蝶よりも美しい。羽はぼろぼろになってしまったけれど、産まれたばかりで、こんなに苦労をしたけれど、しっかり自分の力で飛んでいる。

心はどんなに自由を喜んでいることだろう。自由の意味を知った蝶は、今を大切に生きるだろう。空の青さを思い知る。空気が美味しいと味わえる。木々の香りや、草花の色、水に泳ぐ魚達を見て感激することだろう。

味わうがいい。どの蝶よりも感じるがいい。
それは自らが勝ち取った誇らしい魂だから。






「生まれる前からの知識」



産まれる時、人は前世の全ての知識を持っている。
あまりに多くのことを知りすぎて、修行する機会をのがしてしまう。そんな人生は多分、味気ないものだろうから、忘れ去るまで口を利けない様に、そして目も見えないようにした。



赤ちゃんの目をよ_く御覧なさいな。深く思慮深く、人の全てを見通す目をしているでしょう? もしここで母親の未来を語ったら、きっと育児も手につかなくなることでしょう。 だから、黙っているのよ。人間の中身まで見えてしまうから、言葉が使えないようになっているの。

ゆっくりと観察して、ほら、また聞こえるでしょ? 心の中で内緒の話も。だから黙っているのよ。お父さんの会社での出来事だって知っているの。
もうしばらくしたら遠くに転勤になることだって。全部解ってしまうの。
だからね。お話できない状態を過ごさなくてはならないのよ。

そんな目で赤ちゃんは奥深いところから両親を観察している。前世は音楽家だったこともあるし、画家だったこともある。これは少しずつ忘れていって全て記憶が無くなったら、言葉を覚えて又最初から修行を楽しむことができるの。

中にはすっかり忘れないで前世の記憶が残っている人も時々いるの。
そういう人は子どもの頃から才能を発揮してしまうの。だから、ものすごいスピードで成長するのよ。自分が何をしたら気分がよく、上手にできるのか知っているからなの。

でも、本当の知識は現在の人生についてだけなの。でもね、時々初めてのはずなのに、なつかしいと感じる場所や、人、空気があるわね。きっとうっすらと記憶が残っているのでしょうね。

赤ちゃんの時は完璧なのよ。全て。性格も人格も完成されているの。記憶を忘れるルールに従って、徐々に話ができるようになり、最初から人生を学ぶことになっているのね。でも完成されると壊れてしまうのが人間なのよ。だからまた忘却の旅をしながら学ぶの。小さな完成をすると方向を変えて又学ぶの。そうすると深い人間ができあがっていくのよ。

赤ちゃんの目は全てを知っている目よ。素敵でしょ。何も語らないけれど感じているのよ。そして目の前の両親が成長していく手だてを、ヒントとして出してくれるの。まずは親を人間として育ててくれるの。年齢と共に大きな存在の忘却を始め、小さな人間となって親から守ってもらいながら生きていくの。

そしてはるか遠くの記憶を探る旅にでるの。人生を充実したものにする為に、自分の存在を確かめる旅をするのよ。思い出してごらん。どんな時嬉しいか、どんな時悲しいか、どんな人生がふさわしいか、思い出してごらん。






             「転校生」



「おはようございます。今日はこれから一緒に勉強をする、新しいお友だちを紹介します。 晴子さん です。みんな、仲良くして下さい。」担任の先生は私をクラスの皆に紹介して、
「何処から来たか、君から皆に挨拶してください。」と言い、私を見てにっこりしました。

私は恥ずかしがりで、頬が赤くなっていることが自分で解ります。小さな声で
「皆と同じ銀河系からです。」と呟きました。小学校5年のクラスの皆は、笑いもせず、何を言っているのかと言う風な顔で、ポカーンと転校生の私を見つめるばかりでした。

先生は困った顔で
「この席に座って下さい。」と新しい私の席に案内してくれました。教壇から向かって右側後ろから3列目です。机の上には何やらナイフで悪戯書きされた、知らない名前が書いてありました。

担任は国語の先生で、そのまま授業を始めました。教科書の下読みをしていない、新しいページは私を不安にしました。大好きな国語なのに先生の話は上の空、教科書の字は躍っていました。

授業が終わり休憩時間になると、私に興味のある子達で私を囲みました。そして元気そうな男の子が、私の赤くなった顔を覗き込んで
「銀河って?」と聞きました。私はしばらくその男の子を見つめていましたが、なんだか優しそうな目をしていたので、
「この地球も含めた大きな宇宙の星の集まりよ。」と答えました。彼は目をキラキラさせて聴いてくれました。私は続けて、
「その星の集まりの中の、小さな星から来たの。」と自分でも知らない天体の話を不思議な気持ちで話していました。

「ふ_ん、変な話。」と言って自分の席に戻る子や、不思議な者を眺めるようにずーと私のそばにいる子がいました。私はそれから休憩時間ごとに数人の人と話すようになり、放課後も新しい友だちは、私の家の前まで付いて来ました。家には天体望遠鏡や顕微鏡があるので、誘うと家に入ってきました。そこでまた
「銀河って?」と新しい友達が聞いてくれました。
「私達が毎日見ている太陽は、銀河系の中心から28000光年離れたところにあるほんの1つの星なのよ。そしてその太陽の周りの小さな星たちのひとつがこの地球なの。」
父が話してくれた話を友達にしている自分がなんだか不思議でした。いつも楽しく聞いていたことを誰かに話せることは、私にとって始めての体験で、それはとても嬉しいことでした。

宇宙の神秘、人間の未知への好奇心がフツフツと私をくすぐり、さらに科学の本で見たことや、写真から感じたことで、物語を作ったりしました。その話に興味を持って聞いてくれる友だちは、私にさらに神秘的な話を膨らませてくれました。そして彼女達は私と帰る放課後を卒業するまで一緒に楽しみました。私達がいつも見ている世界とは異なった、小さな世界と大きな世界が在ることに関心を持つお友だちです。
時には水溜りから汚れた水を取り、顕微鏡でミジンコも見ました。触角を忙しく動かしていて、こんなに小さな生き物がこんなに頑張って動いていることにも、驚いて皆で笑ったり騒いだり、そしてミジンコ会話集も作ったりしました。

私は彼女達が家に来るたびに、祖母に手作りのおやつをだしてもらいました。皆も祖母のおやつが大好物になり、放課後は祖母のおやつと私のミクロ、マクロの作り話。







平成

小さな小さな奥に深い 何も売っていない薬局  


私は小さな薬局の前に立つと、すぐに私が探していた所だと解りました。少し階段を上がると、入り口が開いてカウンターに優しそうな白衣を着た女医さんが立っていました。昔はドクターをしていたそうですが、50歳を過ぎて初めて恋をして、結婚後は薬局の経営をしているということです。時々は相談にのって下さると評判の良い女医さんです。

「あの、私、相談したいことが、」
「はい、どうぞ、待っていました。」
「何から話していいのか、」
「わかっています。予約を取ってゆっくりどうぞ、後ほどその時間に。」
「では、その時間に、又来ます。」時間も決めていないのに、其の時間にと言われ、私も解ったような気がしました。外に出ると切り木を横にして、山のように積んだ所があります。私は少し疲れたので、その木の後ろに腰かけ休んでいましたが、約束の時間まで30分ほどあると思いました。
待ち時間、何か私の為になる情報はないかしら? と周りを見渡すと、
{貴方を助けます}と書かれた広告に目がとまり、携帯から連絡先と書かれたナンバーにかけてみました。

「貴方を助けます。」
と男性の低い声。
「助けるって、どうするのですか?」
「まず、会って話しましょう。ここまで来られますか? 」
「ええ、どのように行けば良いのでしょう? 」
「まず真っ直ぐ、そして右。」
その男性は、私の居場所を知っているかのような案内をして、私が返事に困っていると、少しイライラしながら、
「近くですね、じゃー僕が下まで降りて行きます。」
そう言うと片手に携帯電話を持った男性が、さっきの薬局から軽やかに階段を降りて来ました。私は木の後ろに思わず頭をすくめ、そのまま案内を聞いていました。彼は、
「真っ直ぐ、そして右。」と説明を続けながら、遠くを探している様子です。私はじっと聞き入っていました。

「そっちじゃない、右へ。」と言うので、私は
「ここにいます。貴方のすぐ後ろです。」と立ち上がると、彼は驚きもせず、私の前に無造作に木に腰かけ、
「どんな悩みですか? 僕なら30分3000円で聞いてあげます。」と言う。
私は女医さんの約束もあるので、ためらっていると、すかさず
「貴方は私との会話は無理ですね。」と言ってチラッと私の顔をさぐるような目で見ました。

「無理ではありません、お支払いします。」
「そんなことじゃないのです。」と言って彼はスックと立ち上がり、何も無かったかのように姿を消してしまいました。



   2


時計のない私の左腕を見ると、約束の時間が少し過ぎています。

薬局へ戻ると、奥のほうで女医さんは、ご主人らしき男性と食事中でした。
「あら、」と振り返り
「帰ってしまったと思いました。どうぞこちらへ。」と言って立ち上がり、私の方へ来て下さる。
「ごめんなさい、お食事中、おじゃましては申し訳ないので、また改めて。」
「いいえ、いいのよ、さあ、こちらへ。」と私を誘ってくれました。

「何から話していいのか、私、病気だと思うのです。」混乱したまま相談を始めていいのかどうか不安な気持ちで、とにかく話してみました。
「知っています。」女医さんは私を知っているようです。続けて
「私の目を見て、真っ直ぐに、」と静かに私を誘導します。
人の目を見るのは、何だか恥ずかしいような気がします。
「どうしていいのか。」
「大丈夫、目を見て、話さなくても解りますから。」

しばらくすると、突然
「胃癌です。」とはっきり言うのです。
「そんな、いつからですか? 」
「知っているはずです。」
「だって、嘘だそんなの、痛くないんです。胃はぜんぜん痛く感じないのです。いつからこんなことに。」
「あの時です。」
「そんな、簡単に入るのですか? 」
「そうです、簡単にスポンと入るのです。」
「嘘だ、いやだ、そんなの、簡単に入るのなら、簡単で出せるのでしょう? 」
「出せません。簡単に入るけど、出せません。」

左のドアから、白衣を着た2人の助師が、私の横に座りました。
私の右に来た人は静かに1枚の大きな紙を広げ、筆を上下に動かすと、花や木、女性の姿、湖、山、光の全てを軽やかに1本の筆で、ピンク、ブルー、グリーン、ゴールド色で、一度に書き上げていきます。私はもうすぐ死が近ずいた予感と不安で泣き出しました。

もう一人の助師は私の左にいて、白い柔らかなタオルをくれました。
涙を拭くようにと、そっと手で合図しました。
私はそのタオルで止まらぬ涙と嗚咽を押さえ込みました。

「どうすればいいのでしょう?」
「どうすることもできません。」
「いつから、私はそんなことに?」
「知っているでしょう。」
「あの時ですか?」
「そう、あの時です。」
「そんなに簡単に入ってしまうのですか?」
「そうです。」
「治せますか?」
「だめです。落ち着きなさい。受け入れなさい。」
「私は、夫にひどいことを言いました。」
「そうです。其の時、貴方が何かを叫んだ時、その強い言葉が貴方の夫を通過して、貴方の体に舞い戻ったのです。」
「あと、少ししか生きられないのですね?」
私の問いに回答もないまま、3人の女性は、私が後悔の涙が止まらないのを静かに見守っていました。


目が覚めると、夫は珍しく目を開き天井を眺めていました。
「昨日は、ひどいことを言ってごめんなさい。」
「うん」









ふしぎな近道


東京新宿ビル街の中心に工事現場のような空間がある。薄いブルーとグレーを合わせたような色のカバーに覆われている。空気のカーテンのように風になびく柔らかな一角。とても静かで工事している様子はない。そこは何かの特別な風が吹いている。夫は私に
「ここが近道だよ、でも少しこわいよ。」と言った。そして私をエスコートしながら歩き始めた。

囲いの一部分にドアのような木が立てかけられている。私はここから入るのだろうと思った。と、サラリーマン風の男性がどこからともなく現れて、それを通り抜けた。開けずにスーと体がドアに解けて行くように、吸い込まれた透明人間のようだった。

夫は歩き続ける。私は今の不思議な出来事を、話したいのに口が思うように動かない。ショックのあまりに言葉がでない。夫はあの不思議な情景を見ていなかったのだろうか?

「こっちから入ろう。」とやさしく私を誘導する。その入り口は、夫しか判らない別の入り口。風になびいて滑らかな布の間。左手で私の体をすくい、右手で布を広げ中に入った。

中はこの囲いと同じ薄いブルーとグレーの世界。寒くもなく、熱くもない。気温や湿度がない。体は軽く滑るように歩くことができる。重力もない。細長い道、まっすぐに長く、幅は4_5mほどだろうか。突き当たりの終わりが見えないほど長い道。

向こうから2_3人の人が歩いてくる。最初の人は疲れたように肩を落とし、無感情の顔で、手に提げたアタッシュケースだけがよく目立つ。私の右をスーと通って行った。
次は女子学生、ノートや本が詰まったバックを持って、すれ違う時にチラッと私を見た。何か私に良く似た感じ。その次は男性、ただ通りすぎるだけの存在感のあまりない人。その人が通った時、私は恐怖を感じた。足の先から鳥肌が一気に頭まで上ってくるような、激しい恐怖が登りつめた。

夫に(戻ろう)と言いたくても声が出ない。
向こうから、もう一人、小さな女性がこちらに向かって、すごいスピードでやって来る。子供ではなく均整の取れた50cmほどの大人の女性。何かを振り回しながら向かってくる。細い白い線のような物。刀だろうか? それとも糸?

服装はスカートのような、でも近くに来て、それは袴だと判った。
いつの時代のものだろうか? はかまなど今も着ている人がいるのだろうか? そして彼女が持っている白い長い刀のような物は、私を確かにかすめた。切られたと思った。が痛みはない。

ここは、こ こ は、現 世 ではない。
出なければ。ここから出なければ。私は後戻りしたい衝動に、体の向きを変えようとしたけれど、夫の静かな、そして途方もなく強い腕の力で前に進むしかないのだと知った。

永遠に続く長い道。後戻りできない道。私はこの道に入ってしまった。
どこへ行く近道だろうか?





火山の女

愛を知らない男と結婚した女がいた。
男は誰でも同じようなものだと世間の話を鵜呑みにした少女は、ならば格好の良い男と一緒に暮らしたいと思った。
結婚後、新婚旅行で早くも性格の不一致を発見。買い物のセンスもまるで異なる。会話も空回り、旅行中は何を考えているのか探るばかりで、お互いの感性に触れることもない。趣味さえわからない。
旅行が済めば、お互い会社勤務で忙しくなった。時間の都合で夕食すら共にしなくなった。これが幸か不幸か相手をよく知らないまま数年が過ぎた。
子供も生まれ、順調に成長し社会人になった。世間的な生活は続けられた。
定年退職まで2年を残し夫はリストラ。女はいつものように会社へ出かける。

愛を知らないままの夫は、人生で学ぶべきものを吸収することもない。
家庭の仕事は女がすべきだという考えが根っこにある。一日中家にいて、ゴミすら棄てない。仕事から帰ってきた女は夕食の支度をしてテーブルに運ぶ。夫はお据え膳で箸を独りで進め始めた。

女は、自分の分すら手につけることなく、席につくと夫がたいらげている。
性生活も無に等しい夫婦生活を改めて省みると、何て寂しい人生なのだろう。と女は思った。しかし、長年喧嘩すらしなかった夫婦にとって、どう不満を表して良いのか判らない。
今まで通り黙って、夕食を独りで夫の残りを食すか? 迷っている内に、女の本能が目覚め始めた。

子宮を持っている動物的本能。子宮はギリシャ語でヒステリーと言うらしい。
ヒステリーは女の特権であり、又病気のように爆発する。
女は食器をかたずけようとしたが、腹の虫が収まらない。夫はすでにサロンへ行きテレビを見ている。
その夫の肩をかすめて皿が飛んだ。続いてフォーク、ナイフ、グラスが次々に飛んで来る。夫は不思議な光景でも見るように女を見つめている。言葉が出てこない。女も言葉を無くして数年過ぎた。今から話し合うことも、すでに何処から話し始めるのかさえ判らない。ずっと昔から溜め込んだ不満は一気に噴火した。






自由を教える学校

人材派遣会社の依頼で、ある学校の特別コースの助手を頼まれた。講師の名前は不明。何を教えるのかも不明。
何が起こるのか、行ってみなければ解らない。自然に任せて助手を務めようと決心した。行く前から多くの質問をしても現場主義の私にとって、今は何も心配することがない。とにかく行くことにした。
行き当たりバッタリでもない。心の中には整理がついている。どんな方向からでも愛を持って接する道を選ぶ。講師にも受講者にも中立の立場で、正しいと判断できることは、まっすぐに進めば良い。それだけの準備で充分だと考えている。
不安は知らない世界への、いらだちから来るものだ。私は知らないものへの好奇心が、自分の中に密かに呼吸を整えて待っていることを知っている。
自分を信じて知らない時空に身を置いてみることは、楽しいことのひとつになった。
「さて、出かけるとしよう。」私は小さなバックと小さなノートを持って家を出た。人生の様々な経験もある程度はしてきた。でも、これからの時代は変化期、スピードもかなり速く進んでいく。今までの基準を柱にしていては動きが鈍くなる。経験を重んじて同じ箱の中で計算していては誤算が生じる。
真っ白な状態で、何を受け入れ何を棄てるかの判断をすれば良いことである。

そんなことを思いながら、自家用車のスイッチを入れた。この車は今年発売されたばかりでマグネットで動く。
運転免許の無い私は、この時代を待っていた。事故も無いからである。
マグネットは+と-。そしてもうひとつポーと言うチャンネルがある。
イエスかノーかではなく、どちらでも無い。そしてどちらでもある。決してぶつかる事はない。行きたい所へ自由に移動する。

道路には+-道路とポーがある。+は+方向へ流れ、-は-方向へ。ポーは、時空を分けた道路へつながる。車と車がぶつかるような場合は自動コントロールが働き、++と--にポーが入り、引き合わない、衝突しない。時空へ飛ぶ。そして判断コントロールによって、より近道、より安全を走る。

私は学校の住所が書かれたメモを車のコンピューターにインプットした。車はスーッと浮いて地上から10cmほどで方向転換した。緩やかな動きで私は睡眠状態に入ることもできる。シートは自動的にベットのように背もたれが倒れ、頭上とフロントガラスがスクリーンに変わる。
「ラフマニノフ」と言うと、静かに音楽が流れ、
「指揮者はロリンマゼールがいいな。」と言うと頭上のスクリーンに指揮者の後姿が現れる。映像は今までに放映されたものは、全てどの国のものでも選択できる。
彼の指揮する姿がアップで映し出される。彼の指揮は楽しい。命が自由に流れている。きっと彼はこの仕事の為に産まれた人なのだろう。喜んで楽しんで夢中に生きているように、彼の背中には命が充分に渦巻いている。
私は少し眠りに入りそうだ。幸福な眠り。なんと贅沢な時間なのだろう。


2

ロリンマゼールの背中を見ていて、うとうとと眠りの入り口に入ろうとした時、この指揮者には昔、悲しい出来事があった。兄がいたはずだが、現世に存在していない。映像がスクリーンとは異なる、私の脳の映像が見えてくる。
彼の兄はドクターをしている。白衣を着て患者を診察している様子が見える。ある日、新ウイルスを持った患者が病院へ入ってきた。今までの研究が参考にならない、まったく初めてのウイルスだった。数日研究を重ね、友人のドクターにも相談した。研究所へも問い合わせた。そして数日間はこの研究にのめり込んだ。
命の継続、健康の回復、そして死について考えさせられる、大きな使命を持った日々が過ぎた。

そこまでの脳の映像で私は目が覚めた。
私の想像にすぎない。
「あと5分で、目的地に到着します。」
アナウンスで私は完全に現実へ戻った。学校の仕事、今日はどんな人に出会うのだろう。楽しみだ。
私が目を開けるとスクリーンは薄くなりラフマニノフの曲だけが流れている。
シートが徐々に起きる体制に背もたれが上がり、カフェの香りがしてきた。
到着3分前にインプットしておいたカフェのマークが点滅している。
車のスピードがゆっくりになり、地上が見える場所まで降りてきた。
振動も感じない緩やかな移動だった。
「ありがとう、ここちよかったよ。」私はマイカーに話しかけた。
「貴方へのサービスは私の仕事です。」と答えた。
私はカフェを口に含んで微笑んだ。


3


車を降りると、小さな校舎があった。
門を通り入り口に入ると、人の気配が無い。
私はかまわず校舎の中へと進んだ。そして、それらしき教室を探して廊下を歩いた。建物は年代ものだということが壁や天井の作りから解った。木造で大正時代の西洋建築が窓の形やドアの取っ手に、当時の西洋文化の流行が施されている。現代の建築とは明らかに異なる。
廊下を進むと突き当りの教室に
「自由を学ぶ」と書かれた張り紙を見つけた。ここだ。
教室のドアを開けると、独りの男性が、教壇の横にある椅子に腰掛けて居眠りしていた。自己紹介もしない方が、よさそうな気楽な空気が流れている。
私は静かに窓側に立ち、外の景色を眺めた。
庭の先からひとりの女性がこちらに向かって歩いてくる。きっと生徒だろう。彼女が入ってくれば講師も目を覚ましてくれるだろう。
私は裏庭へつながる廊下を下って、タンポポが咲いている庭へ降りた。授業開始まで、まだ時間がある。

タンポポのとなりに仲良く並んで、れんげ草が私の足元に綺麗な花びらを私に向けて、満開に咲いている。私は歩くことを止めた。靴の下にも数本のれんげ草があった。可憐な花。私には1本も壊す権利などない。この庭は誰も今まで歩くことはなかったようだ。

教室から私の名を呼ぶ声が聞こえた。私は今歩いてきた足跡の上を重ねるように歩いて教室へ戻った。
「こんにちは。今日は皆さんに自由を学んで頂こうと思います。」
先ほど居眠りしていた講師が話し始めた。教室は知らない間に満席になっていた。
私は教室の一番後ろに立ったまま講師の話を聞いている。

「これから、この机と椅子を隣の教室へ運び、この教室を空にします。」講師は自分の机と椅子を運び始めた。生徒達は講師に続いて、自分の椅子を運ぶ人、自分のバックだけを持って移動する人があり、其々バラバラに動き始めた。
教室が移動するということだろうか? 私にも説明がない。私は残った椅子や机を講師が移動した教室に運んだ。所々列がゆがんでいる所を整頓しておいた。

元の教室へ戻ると、生徒達は自分の席があった場所にしゃがみこんだり、立ったまま講師の次の言葉を待っていた。空の教室を作ったわけだ。私が受け取った資料には、この住所と時間のみが記入されている。それ以外のスケジュールや授業内容は空欄のまま。

その教室にいる生徒の性別や年齢はリストに載っていない。
見たところ10-60代の参加者達で、彼らの職業や学校名も記入が無い。
単なる人として存在している。
ここで学ぶことは「自由」である。
肩書きの上にある人物や、有名大学生、等の情報も全てリストにない。今日以前の事柄は不要だということだろう。参加者の表情から、人生を想像できそうな人はいるようだ。が、全員が0の状態から、自分で判断した行動を取るらしい。講師の頭の中には、その不思議なプランが組み立てられていると、私は読んだ。

「角から角まで移動してください。」講師はメッセージを与えた。
「何処の角ですか?」ひとりの男性が尋ねた。
「貴方の考える角からで結構です。」
「どのように、移動するのですか?」年配の女性が聞いた。
「貴方の好きな方法でどうぞ。」
沈黙の時間が流れた、誰も動かない。
私は動きたい衝動にかられた。しかし、受講生でない私が行動を起しては講師の考えの妨げになるだろう。不思議な授業だが、私の好きな授業だと思った。そして黙って見守った。

「皆さんは、どのようにどこからどうするか、サンプルがないと動けませんか?」と講師が尋ねた。受講生のひとりが
「よく解りません。何の為にこんなことをしているのか。」
講師は黙ったまま、皆を見つめている。
「貴方なら、どうしますか?」と講師は私を見つめた、受講生も私を見つめた。
私は助手の意味が少し解った。説明などいらないことも。

私は、ゆっくり静かに私のいる場所から、反対側の角まで歩いた。すると、順に私の横にいた人から、私のいた場所へ移動して私が歩いた方向へと歩き、次の人は又決まったように、元私がいた場所から歩き始めた。行列ができた。それは元、私が立っていた場所へ移動する為の行列だった。
全ての生徒が歩いた後、講師は
「又、角から角へ移動してください。」と告げた。20代の男性が自分の立っている場所から反対方向へ歩き始めた。それに続いて各場所から皆が歩き始めた。真ん中でぶつかる人や、笑顔を合わせる人、人を押しのける人、様々な状態が出てきた。

「今度は別の方法で移動して下さい。」講師がいうと、皆動きが止まった。壁にもたれる人、隣の人と顔を見合わせる人、其々に考え込んだ。
講師は又、私の顔を見た。(やってみて下さい。)と無言のメッセージを受け取った。講師は語らなかった。

私は彼のメッセージを受け取った証に、大きく深呼吸して講師を見た。彼は微笑んだ。そして私は今の自然のリズムがどんな状態なのか、できる限り自然な行動を取りたいと思った。静かに自分の内に入ってから、思うままに簡単なダンスを踊った。踊りながら私のいる場所から、反対の角まで進んだ。すると皆も楽しそうに其々の形を作って移動し始めた。

「ありがとう。」講師は皆に向かってそう言った。
受講生の顔には明らかに霧から抜けたような表情があった。ほのかな愛と自信が備わって、其々の動きが其々の道であるかのような、思いに目覚めた顔になっていた。

「ありがとう。」生徒達からも声があがった。
「皆其々に、もっと自由を正しく学んで下さい。この教室は、今後の予定はありません。以前にもありませんでした。今日この日にたった1回だけ行いました。この場所に来てくれてありがとう。お会いできた事を感謝します。」講師はそう言うと、参加者全員に握手をして教室から出て行った。

私は自分の車に戻り、シートを倒し、自宅までと、インプットして眠った。























 















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