恋愛小説 短篇集 「アンニュイ」
アンニュイ
*** フランス篇 ***
もくじ
・ 南仏
私達の時
前世の約束
霧の中の声
記憶どろぼう
男の抜け殻
僕とかあさんの秘密
不思議なカップル
コンピューターの呼吸
深夜のプールに
変動音
カナルデュミディ
地中海に浮かぶ心
輪廻転生
・ パリ
アンニュイの正体
意思の表現
オペラ座
パリのお墓
浮浪者の言葉
カミーユ・クローデル
人間の味たくらみ
不思議なメール
かほり
・ パリ郊外
霧に浮かぶドレープ
貴族の秘密
自分を解放した女
女という生き物「オルリー空港・娼婦殺人事件」
*** 日本篇 ***
日本物語
・ 明治
小枝の羊羹
・ 大正
こぶしの愛
糸つむぎの音
望まれて花
・ 昭和
紫の愛
ハイヒールの熱
2度産まれた女
帰りたい
くもの巣の蝶
生まれる前からの知識
ないしょ
転校生
・ 平成
小さな小さな奥に深い 何も売っていない薬局
不思議な近道
火山の女
自由を教える学校
本編
・ アンニュイ・フランス篇
南仏プロヴァンス
「私達の時」
日曜日のピクニックが習慣になった夏の日。トランクにワインとサンドイッチを積み、カマルグへと向かう。野生フラミンゴの群集見たさに何度も訪れた場所。車窓に熱く照りつける太陽、窓を開け胸いっぱいにプロヴァンスの香りを嗅ぐ。
この季節、我が家周辺ボーキュルーズとドローム地方は、ラヴェンダーが一面に咲き、美しい景色と香りを満喫できる。紫色に染まる景色に遠い昔を重ねる。人生の様々な出来事、その度に思う人の在り方。人生の長くて短い道のり。流れる景色のように人々は流れている。
心の中に潜む不安と期待、その為に私達は大きな力でお互いに引き付け合い、時を共有する。それは夫婦、兄弟、親子、友人、何かの縁で繋がっている。恋人はことに深い縁で繋がり、必要なタイミングで必要な人が現れる。その時々の願いに合う道案内を勤める。
人の姿は、人のあり方、心のあり方に関係がある。その人の持つ空気そのものの姿。恋人との出会いは過去の約束かも知れない。
そんなことを思いながら、高速道路に入るとエアーコンディショナーに切り変え、窓を閉める。そして静かにクラシック音楽を聴く。これもいつの間にか私達夫婦共通の習慣になり、私か夫のどちらかがカセットのスタートボタンを押す。
ラフマニノフ、私達の好きな曲が流れる。曲からは雄大な自然の景色や太陽のエネルギー、草花の香り、空を自由に飛ぶ鳥。海底をゆるやかに泳ぐ大魚の姿が映像となり踊りだす。これらは全てイメージとなって私の頭を駆け巡る。
突然、目の前を大きな光が過った。世界を真っ白に染め、太陽が私を包み込む。深い世界へ凄まじいスピードで吸い込まれている。やがて漂よい。時間が消えたような感覚。温度を感じなくなる。体が宇宙の果てにあるような不思議な世界へ。今までに感じたことの無い、異次元の世界で通過していく光と命。
遠くで人の声がする。声にならない私の声。深く心地よい眠りの中。
悩みも無く、苦痛も無い世界。漂っている。吸い込まれる気圧の変化。
形が形で無くなる。勢いを持って中心へと落ちて行く。
何かの力で深い眠りから少しずつ現実に戻されている。足元の重みで目が覚め、知らない人が私を覗き込んでいる。ここは何処だろう? 壁もベットも私達の家の物ではない。白く清潔だがひんやりとした空気を感じる。
「ご気分は、いかがですか?」私の知らない人が心配そうに尋ねる。
答えがでない。どんな状況に私はいるのだろう?
「もう3日間も眠っていましたね、気が付いてよかった。今、先生を呼びますからね。」彼女はそういうと白いドアを静かに開けて出て行った。呆然として記憶がはっきりしない。何があったのだろう? 私は太陽に飲み込まれたような瞬間を思い出した。ここは、病院なのか、夫は? 私は? どうなっているのだろう? 全てが判らない状態に戸惑う。思い出してみよう、落ち着いて、自分に言い聞かせながら静かに目を閉じ、記憶を探ってみた。
朝はピクニックの準備をしていた。そして些細な喧嘩をした。朝食のかたずけとサンドイッチの用意。忙しい時、少しイライラするのは私の癖。夫はそんな私に
「今日帰ってから僕が、かたずけるから、そのままにして出かけよう。」と言った。
「帰ってからするの? 嘘ばかり。いつも私がすることになるのよ。」
「いいから、出かけよう。」
記憶の中で夫の声が近くに聞こえる。
白衣の男性が私を見つめ、冷静な口調で
「どこか痛む所はありますか?」と尋ねる。
「私は事故に合ったのですね、夫は何処にいますか?」先生と私の会話はお互いに質問を与え、回答など何もない、ただ不安のみが押し寄せた。
「残念ですが、」先生の声が途切れ、私には何も聞こえなくなった。
とてもいい天気でした。いつものようにドライブして、ラフマニノフを聞いて、そうだ! 夫がかたずけをしてくれると言っていた。今日は必ず手伝ってもらおう。
「ね、貴方。そうでしょ! きっと手伝ってくれるでしょ? 」
2
高速道路に入ると、エアーコンディショナーに切り変え、窓を閉め、静かにクラシック音楽を聴く。これもいつのまにか習慣の一部になり、妻か僕のどちらかがスタートボタンを押す。
ラフマニノフ、私達の好きな曲が流れる。空に浮かぶ大きな雲や白い月。それに重なる木と長く引いた陰、曲からは雄大な自然、草花の香り、たてがみをゆらし走る馬。これらは全てイメージとなって私を楽しませる。
角に大きなトラックが待機している。彼らは私達が通過するのを待っていてくれるだろう。それにしても妻はよく働く。魔法を使ったかと思うほど早く、バックにはサンドイッチ。いつの間に作ったのか、朝食を共にしながら、すでにピクニックの準備も出来上がっている。その上、朝食の後かたずけまで始めた。
「もう行こう。」と僕の声に、めずらしく台所をそのままにして車に乗った。
あっ! トラックが!
待っていたのじゃなかったのか? 僕らに気が付いていない!
何時間も眠っていたとドクターが説明してくれた。そして僕は今、ひとりぼっちだということも。
今朝は一緒だったのに、君があまり多くのことをいっぺんにしようとするから、「帰ったら僕がするよ。」と約束したじゃないか。喜んでくれるだろうと楽しみにしていたのに、どうしてそばにいてくれないんだ。
トラックは君に直撃した。僕は気を失う前に君にキスをした。
それが最後の別れになるなんて。
***
「前世の約束」
プロヴァンス、始めて訪れた小さな村の教会に、私はデジャヴを感じました。
ひんやりとした石で囲まれた古い教会。誰もいない。
ドアを押すとギーと鈍い音を立てて、古びた木のきしむ音がしました。
中へ足を一歩入れると、懐かしさがこみ上げてきます。
私は偶然にこの村に訪れたのに、この場所は私を待っていてくれた。
そんな気がしてなりません。
2列に並べられた長椅子。私はその右側の前から3列目に座りました。
この場所も知っているような気がします。
ふと、大勢の人が入って来ました。何も語らず、静かに次々と。
エプロンを付けた主婦、農作業をしていたままの作業服の男性、帽子を横にかぶった少年、三つ網のお下げを両側に垂らした少女。学生風の男性達、色々な人達で小さな教会は、ついに満員になりました。其々の場所に決まったように腰掛け、静かにうつむいています。
其の人達の服装の全てが現代の物とは明らかに異なります。映画で見た何百年も昔の洋服です。話すこともなく見つめ合う事もなく、ただ静かに座っています。
周りの空気は音のない静かな焦点が定まらない、何かぼんやりとした世界です。
私はふと、横に座った男性を見ました。見覚えがあります。
学生の時に恋をした、たったひとりの男性です。
彼は前世で何度も私の夫でした。学生時代のすれ違いで、もう何年も会っていません。でも忘れたことは無いのです。現世でも私の夫になるはずでした。でも私の気付きが成長していなかったので、すれ違ってしまったのです。
今日はこうして再会できたのです。
私たちは又、来世でも一緒に人生を歩むことを希望しました。
夫もしくは兄妹として。
この教会に来てよかった。貴方に会えて嬉しかった。今度はきっとずっと一緒にいましょうね。
私の祈りが終わると、知らない間に大勢の人の姿は消えていました。
***
「霧の中の声」
霧に囲まれたシャトーに向けて、真っ直ぐに伸びた細い道を馬が駆け上がって来る。木々の枝をくぐり、草むらを掻き分け、カッカッカ、と音を立てて、静かな小さな村に響き渡る。
夜明け前の梅雨がしたたる葉を蹴散らし、暗闇をまっしぐらに駆ける馬。其の背中には濃い色のマントに体を包んだ一人の騎士の姿があった。
右手はしっかりとたずなを握り、指に絡ませ爪が剥がれるほどに食い込んでいる。
左手には髪の毛をわし掴みにした血のしたたる生首。シャトー付近まで来ると入り口を探すような、馬の迷いの足音。右へ左へと方向を変えては走り出し又止まる。何度も繰り返し、やがて門の前に静止した。騎士には動きがない。馬のみの呼吸が聞こえる。
たてがみを揺らし前足で門をかく。その勢いに騎士の体は後ろに大きく回転し振り落とされた。その体には頭がなかった。ころがり落ちた騎士の左手には、自分の頭が指に絡められていた。
この騎士は、戦いが始まる前に隣村まで援助を求め旅立った、このシャトーの持ち主。代々王の血族であったが故、過去には兵隊も大勢いたが時代と共に王室の形は変わってしまった。元兵隊の中には商売で王同然の暮らしをする者さえ現れ、時代の流れを疎ましく思う間もなく。時が否応無く全ての権利と財産を奪っていった。歴史と責任の重みだけを残して。
復讐の知らせを受け取った騎士は、急な恐ろしい知らせに戸惑い、隣村まで援助を嘆願しに行った。そこはすでにその戦いを挑んできた村と示し合わせていた。
先祖の戦いは人の心に深く根を下ろし、許すことを伴わなかった。時代が変わったというのに復讐の渦から身を守る術さえ無く。廃墟と化したシャトーは、ただ過去の重い歴史を背負い子孫に恐怖を与えた。その恐怖も復讐の実現という形で終止符を打った。
霧の中に響き渡る騎士を亡くした馬の鳴き声が、この無人のシャトーに今も響いている。
***
「記憶どろぼう」
プロヴァンスの山道、冬は人も少なくひっそりと自然だけが、夏の賑わいから置いてきぼりにされている。車のヘッドライトが唯一の灯り。今夜は月も星も輝きを消している。
真っ暗な穴の中に封じ込められたような夜。
女がひとり道を歩いている。
服は薄汚れ胸の辺りのボタンは落ち、今にも乳がこぼれそうに揺れている。
ブロンドの髪は頬にへばりつき、袖には血が付いている。
車が通るたびに、ヘッドライトに映し出される女は、あわてる様子もなく、瞳は宙を見ている。小雨が降り出した。
通りかかった車は、スピードを下げるが、又走り出す。
女の足元は靴も履かず、ストッキングには穴が開き、片足は完全に裸足で土に汚れている。
悲しそうにも見えない。ただ、女がひとり歩いている。
女の着ている物は上質で、体全体からも上品さを伺うことができるが、異様な空気を感じて車を停める者はいない。
誰かが携帯電話でポリスに知らせたらしい。
女が見える辺りで、パトカーがサイレンを止めた。ゆっくりと走り女の様子を見ている。それに構わず歩き続ける女を、一人のポリスが車から降り声をかけた。
声にも反応がない。ハンドルを握っていたポリスも、運転を止め車から降りた。
話しかけても通じているとは思えない。いったん車に戻ると無線で救急車を呼んだ。
2日前、ある建築家が妻の行方不明の届けを出していた。その男に連絡を取り、病院で面会することになった。男は冷静な面持ちでやってきた。そして、ベッドにいる女を妻だと答えた。
女は記憶喪失にかかっている。夫の顔さえ覚えていない。病院の検査書には名前すら答えていない。
事故に巻き込まれたのか、何かのショックか。検査していく間に、妙な薬物が検出された。
家庭の台所にある、調味料の組み合わせで簡単に作れるものに加え、雑草の一種で山に生える植物が混じっていた。一定の量を超えると、それはある神経を麻痺させるものだった。
建築家の妻には、最近新しい友人ができ、時折一緒に食事をしているようだった。
その人物は女の記憶が戻らない限り、突き止める事は困難だった。隣の住人も、どのような人物が出入りしていたのかを見ていない。
ただ時折、話し声が聞こえたりしただけで、声に特徴があるかの問いにも解答は無かった。証拠や存在を確かめる手がかりはゼロに等しい。
女は病院で治療を続けることになった。意思の回復は長時間かかるということだった。永久に回復しないこともありえる。
建築家は妻不在の間、家事仕事に人を雇うことにした。
2
入院生活は5年の年月が流れ、女は徐々に記憶を戻していった。自分の名がカトリーヌであることや、家はこの地域に代々から伝わるラヴェンダー畑の地主であることが、記憶と共に住所のある村からの情報で身元が判り始めた。後は自分自身が自覚をすれば、全ての生活が元に戻るはずだった。
退院当日、夫が迎えに来る約束だと医師に言われ、数時間も待ったが、来る様子がない。仕方なく車を呼んで病院から受け取った住所が書かれた紙を持ち、自分の家の近くまで来た。
途中の道から記憶が更にはっきりしてきた。ぼんやりとしたものから、1件1件の門の形、散歩に行った公園、犬と腰掛けたベンチ。懐かしい景色の中で、とうとう自分の家に、戻ったのだと実感が湧いてきた。
この家は両親から受け継いだもの。地元のオイル工場経営をしていた祖父が建てた家。私達は長い歴史を持ってこの家で過ごした。車から降りると家の全体を見渡し、子供の頃につまずいた木のカブや、自転車を停めた白い囲い、クリスマスに飾りを付けた入り口の木。思い出すことがいっぱいあり、回復は益々スピードを上げていった。
カトリーヌはドアを開けようとしたが、鍵が掛かっている。ベルを鳴らすと、夫が出た。無言で開ける。家に入ろうとすると夫はドアノブを持つ手に力を入れた。
喜ぶものだと思っていたのに、不思議な夫の態度に一瞬の頭痛を覚えた。その痛みはさらに恐ろしい光景を、カトリーヌの頭の中にスクリーンとなって映し出している。
現実のものか想像のものかは判らない。そのスクリーンはフラッシュをたいた光の中に1つずつある光景を描き出す。
フラッシュが弾けるとカトリーヌのドレスを着た別の女の姿。次のフラッシュでは台所に立ち、カトリーヌが使い慣れた用具をまるで自分の物のように使い、料理をしている女の後姿。その次にフラッシュが光るとカトリーヌの白いレースの大きなベッドに男女が絡み合っている。
カトリーヌはドアによりかかったまま、呼吸が苦しくなった。
夫の足元に崩れ落ちる。フラッシュはなおも続く。
次のフラッシュでは、ベットにいた男が振り返る、それは、今カトリーヌの前に足だけを見せている夫。その横にカトリーヌのシュミーズを着た女の顔。
カトリーヌは思わず息を呑んだ。熱く苦い息が喉を焼いた。
友人だと思っていた女の顔がそこにあった。
カトリーヌは全てを見たような気がしたが、頭の中で起こった何かのショックに過ぎない。しばらく落ち着くように呼吸を整える。すると夫はカトリーヌに手を伸ばした。その腕につかまりゆっくり立ち上がると、夫は微笑み、
「おかえり。」と言った。
「今から迎えに行こうと思っていたところだった。仕事がせまっていて、すぐに行けなかった、ごめん。」
カトリーヌは、思い過ごしたことに後味の悪さを感じたが、夫は支えてくれている。良かった。これからもっと回復して夫と一緒に、5年前のように私達の生活を楽しむことにしよう。時間をかけてリラックスすれば、元のようにラヴェンダー畑で好きな仕事もできる。台所にも立ち夫の好物のハタトーユも作ろう。休みにはいつものようにワインとサンドイッチを持ってカマルグへフラミンゴを見に行こう。体力をつけなくては。ベッドで長年横たわっていたから、足が細くなり、歩くだけでも呼吸が乱れてしまう。
ゆっくり、太陽の中で元気になろう。カトリーヌはサロンにあるいつものソファーまで、夫によりかかりながら歩き。心の中で回復に向けたプランを描いていた。
ソファーに腰掛けると、変なぬくもりがあった。今まで夫が腰掛けていたのか?
仕事に追われていたと言っていたが、確かにこのソファーに体温が残っている。周りの飾り物の位置も変わっている。
部屋の掃除はされているが、見えない部分に、ほこりがたまりテーブルの角にしみがある。カトリーヌは綺麗好きでいつも隅まで行き届いた掃除をしていた。
夫は家政婦センターからの派遣を頼んだと言っていたが。
カトリーヌは胸騒ぎを覚えた。先に見たスクリーンのような映像が、今度は霧に巻かれたように映し出される。
階段を上がる女の姿。ランプを持って後からついて上がる夫、部屋の明かりをひとつずつ消しながら。
「何か、飲むかい?」夫の声で、霧の映像が消えていった。
「ええ、」
夫は冷蔵庫からオレンジジュースをグラスに注ぎ、カトリーヌの前にあるテーブルに置いた。
カトリーヌは神経が疲れソファーに体を横たえた。
「仕事がまだ、かたずいてないんだ。出かけてくるよ。ゆっくりお休み。」
夫はそう言うと、テーブルクロスやナプキンが入っている、古い木製の引き出し下の開きから、ひざ掛けを取り出しカトリーヌの足元に掛けた。
そして、暖炉の横にあるキーケースから車の鍵を取った。どの鍵を取るかは音で判る。両親と祖父達が生活したこの家は、隅々まで音で誰が何をしているかが、はっきりと判る。
夫が駐車場のドアを片方ずつ開いて、車を出し又片方ずつ閉めている。
いつも変わらぬ音。2つのドアが重なる時、古い木が鈍い音を出す。
久しぶりの自分の家。懐かしい音。カトリーヌは深い睡魔に任せた。
3
ディーン、ディーンと古時計の音でうっすらと目を開けると、西陽が床を照らしていた。暖炉の上にあるろうそく立てに反射して、カトリーヌにキラキラと光を投げかけている。
ソファーに寛いだまま、カトリーヌは子供だった頃を思い出していた。
このサロンにロバを連れてきて、母に叱られたこと。
祖父がカメラを買ってきて、皆で庭に一列に並んで撮ったこと。その時は祖父の運転手が家族全員を撮ってくれた。そのエピソードが、今も滑稽で笑い声さえ聞こえるようだ。運転手は
「一列だと全員入りません。ムッシュー。」
「一列がいいんだ。撮ってみてくれ。」
「お子さんだけでも前に来てください。」
「子供の背丈が成長と共に、家族の中でわかるんだよ。ジョゼフ。」
「お二人がかけてしまいます。ムッシュー。」といって困っていた。
祖父は、
「君が一歩後ろに下がれば良い。」
「あーウイウイ、入ります。ムシュー。」
皆が一斉に笑った。
ジョゼフがハンカチで汗をぬぐいながら、一生懸命に撮ってくれた。
その時の全員笑顔の写真が、暖炉の横の大きな丸いテーブルに、今もある。
「この家は、私を育ててくれた。祖父母も亡くなり、両親も亡くなった今も、こうして安らぎを与えてくれる。」カトリーヌは、独り言を言うと、夫が置いていった生暖かくなったオレンジジュースを飲みほした。
喉を通る水分が違和感を伝えた。愛のリズムが不協和音を出している合図のようで、カトリーヌは不安を感じた。
ソファーから体を起すと、目眩がした。ゆっくり立ち上がり、暖炉の横に立てかけてある祖父の杖を掴んだ。祖父が何年も使ったぬくもりと滑らかさがあった。
艶のある手元の木は祖父の掌で色を変えていた。少し薄くなった所は最も暖かな木の感触がする。その杖に支えられてカトリーヌはゆっくり階段を上がり、自分の寝室へと向かった。子供の頃からの部屋。自分の愛した小物達。そして久しぶりに見る自分のベットは。 自分ではない誰かの匂いを残している。
カトリーヌの頭痛は激しい動揺も共にした。呼吸は速くなり、心臓の音がはっきり聞き取れるほどに高鳴っている。
「なにが起きているの? この家で。」
「どうしてしまったの? 私の人生は。」
「教えて、誰か、私はどうしてしまったの?」
カトリーヌは自分のベットにも横になれず、杖にささえられたまま、行き場所をなくしていた。
心臓の音を鎮めるために、深い呼吸をした。その度に母の声と祖母の声を聞いた。
「カトリーヌ、愛しているわ。私のかわいい子。」
杖に力を込めて、カトリーヌはベットを思い切り叩いた。肩で息をして、この部屋から遠ざかること、そして、一刻も早く、この状態から開放されたいと願った。
祖母の使っていた部屋に入ると、ベットや編み物台や小さなテーブルには、白いほこりよけの布がかかっていた。祖母がよく昔話をしてくれた時に腰掛けていた肘掛け椅子の布をはずすと、クモの巣が指に絡まった。
淡いオレンジ色のルイ14世の椅子。カトリーヌは静かに腰掛けた。
天井や床は歴史を飲み込んで静まりかえっている。
「マミー、どうしたらいいの? 教えて。私は何故、自分の家に帰ってきたのに嬉しくないの? 」
窓から見る夕陽は赤々と燃え、ラヴェンダー畑を照らし出している。窓を開けると乾いた空気がカトリーヌの頬をなで、懐かしい香りが体を包んだ。
カトリーヌは全てを一瞬に完璧な答えを掴んだような気がした。
友人は、いつどのようにして近ずいてきたのか? そして夫は家政婦紹介にどのように頼んだのか? 問わずとも答えはすでに準備ができた。
後は実証できるものがあれば・・・
夫の書斎に入り、鍵をかけた。
5年間の暮らしがどのように過ぎていたのか、手がかりがあるはず。
引き出しに家政婦紹介所の領収書があった。代表の名は友人のそれだった。
下で物音がした。誰かが家の中に居る。引き出しの書類を元に戻そうとした時、1枚の写真が夫のスケジュールファイルから落ちた。それは、夫と友人の若かった頃のものだった。
腕を組み、恋人同士のように見える。写真の下に1975年と記されている。それは、カトリーヌと夫が出会う前の年号。ということは派遣所長と夫との間には、カトリーヌとの結婚前からの関係があったということ。
「夫は恋人を使って私から記憶を奪った。」
結婚前からの計画。
「恋人をこの家に入れる為に、私だけがじゃまな存在だった。結婚の目的は家。財産。」
この5年間、彼らはこの家に夫婦のように暮らしていた。
カトリーヌが記憶を無くし始めた時、夫は車で山へ連れて行った。そこで何も知らない妻を放置した。事故で死ぬか、野犬にでも噛まれてしまうか、あるいは山で行方不明のままになることを願った。
「何故、結婚したの。私はこれから生きていく為に何をすればいいの? 」
階段をゆっくり上がってくる足音が聞こえる。
真実を手にしたカトリーヌに、もう迷いはなかった。
答えは自分の中から湧いてきた。
愛のない生活は、もう終わりにしよう。
夫は鍵を開け、ドアの外に恋人と一緒に立った。そして、無言で妻を見つめている。
カトリーヌは、静かにそして二人を見つめて言った。
「出て行くのは、私ではなく、あなた達2人。この家から出て行きなさい。」
***
「男の抜け殻」
40歳代後半、男性の最も素晴らしい季節。
男性としての経験が一通り済み、仕事とプライベートに重みを増す。
セミが精一杯鳴き、夏を競い合い、そしてその疲れを味わうようなたそがれ時。
ひとつの本能を最高に膨らませた直後の、命の香りがする。
責任という不思議なエネルギーを背負った魅力的な背中。
この時期に一人でいる男性は、過去に大きな傷を残したか、又はまったく何もしなかったか。それとも、本当の恋に精を尽くしきった男の抜け殻。
背中を見れば感じる。背負った過去の重さ、責任、深い感性。
新たな恋を求めることなく、ただ淡々と背中に大きな想いを背負っている。
おとこのぬけがら。語らなくとも聞こえてくる。過去の狂おしい恋。
思い出等と簡単に言えない恋。
自分も相手も言葉を無くす程の切ない恋。
季節が変われば何もなかったように、人生も変わってしまう。
ただ心の中の何かが輝いている。おとこのぬけがら。
木漏れ陽の中の散歩道。すれ違う男達の背中に見る過去。
妻にできなかった苦しい恋。男はその全ての意味を受け止め、ただひとりでこの散歩道を通過した。
「私と一緒にいて、私を愛して。」あの時の恋人の声を今も心に聞いている。
そして、ある日突然、恋人は姿を消した。
追いかけることも、探すこともできなかった。あきらめるには大きすぎた恋。別の人を愛することさえない。男の心は今も恋人を求め続けている。恋人はあの頃のままに美しい。
一度だけ涙を見せたことをふと思い出す。あの時の意味を聞いてみたかった。
いつか、ゆっくり聞こうと。そのままにした。そんなこともあった。
今では悔やむこともない。通り過ぎた人生の夏。
そんなけだるさを男の背中が語る。男はこの並木道を歩く時、いつも恋人と一緒にいるような、そんな甘い疲れがある。果たせなかった責任を背負ったままの男の抜け殻。
プラタン並木、午後のアンニュイな陽が映し出す。男の背中に見る恋人の影
ふと私の足元に木から落ちたセミの抜け殻。
私はそっと拾い 静かにキスをした。
***
「僕と母さんの秘密」
絵描きのフランソワ爺さんが亡くなった日。
母さんはお葬式に、ピンクのドレスを着ていた。
教会では爺さんが好きだったアメリカの歌が流れていたね。
時々お酒を飲んだりした時に、爺さんが口ずさんでいたあの歌だよ。
ルイ・アームストロングの渋い声が爺さんのお気に入りだったね。
村の人達は教会からお墓まで、フランソワ爺さんの話をしながら歩いた。
僕は何も話さなかったけど、数ヶ月前にフランソワ爺さんと犬が散歩しているのを見たんだ。
その時、僕はこれが最後になる爺さんの姿だ。と感じた。
そのことを言わなかったのは、とても怖かったからさ。
何故かは解らないけど・・・僕は、感じることが実現することを知っているんだ。でも、このことを言うと村の人は気味悪がって僕をひとりぼっちにするから。
母さんもそうだろ? 知っているよ。僕は。
母さんが村の人から、仲間はずれにされていること。
そして、昔、母さんが子供の頃に、つい口が滑って近所のパン屋さんが亡くなることを話したね。だからさ。
村の人はそれ以来、母さんを気が触れた娘として扱ったんだ。
僕は母さんが普通じゃないって知っているよ。
だけど、僕は何も言わない。
フランソワ爺さんが亡くなる前の日、僕は眠れなくて水を飲みに階段を下りようとした。母さんは黒いドレスを出して裾のほころびを直していたね。僕は母さんの様子を見て、やっぱり爺さんは亡くなるんだと思ったよ。
その次の日だよ。村長さんから電話でお葬式の日を教えてもらったのは。ねえ、母さん。僕は黙っているさ。だって、母さんが爺さんの亡くなる前の日に、黒いドレスを準備していたこと。そして、その準備が母さんを孤独にすること。
そして母さんは、わざとピンクのドレスを着たんだ。急で準備ができない振りをしたんだろ?
母さんは僕が感じるように知ってるんだね。
母さんと僕は同じなんだ。だから、僕は僕の人生が終わるまで、母さんを守って秘密にするよ。誓うよ。母さん。
***
不思議なカップル
プロヴァンスの小高い丘の上に、素敵なお庭に囲まれた宅がある。
カップルが暮らしていて、時々二人で旅行を楽しんでいる。
男性は70歳を超えているだろうか、女性は少し手前といった感じの静かな性格の持ち主。笑う時も微笑むだけで声を聞いたことがない。
入り口の整えられた花々は、二人の世界を静かに守る門のように、外からの空気を入れない頑固な雰囲気を持っている。窓は少し開けられ風が爽やかに流れている。それは、カーテンを揺らす滑らかな動きで伝わってくる。テラスと階段に添えられた花ポットも、とても手入れが行き届き、彼らの几帳面な人格が伝わってくる。
街の人々とは、あまり交流がなく、二人仲むつまじく密かに優雅に生活している。
私は母に頼まれ近くにあるパン屋へ立ち寄った。田舎なのにいつも大勢の客が並んでいる。どこからこんなに大勢の人が出てきたのか、不思議な程に人が並ぶパン屋さん。私の後方でひそひそ話しが聞こえる。
「イタリアへ旅行したのですって、毎年決まった時期に、決まったホテルを予約するらしいわ。」
「でも、どうして二人とも結婚しなかったのかしら? 」
「そうね、」
「やはり、」
「そうね、やはり、」
このひそひそ話は私に密かな好奇心を残し、そこで終わった。
私の順番がやってきて、焼きたての香りのするパンを受け取ると、まだ熱い部分があって思わず持ち変えた。先を少しちぎって口に頬ばると、表面はパリッと固めに、中は香ばしい麦のフランスパン独特の味が口いっぱいに広がった。
家に向かって帰る途中、あのカップルの家の前をゆっくり通ってみた。二人は独身なのか。仲良く暮らしていて夫婦だと思っていたが、何故、結婚しないのだろう? きっと気楽な気分を重視した末なのだろう。と私なりの解釈に終わろうとしていた。
花々に埋もれた門にある表札が目に付き、名前を見ると同じ苗字で女性名と男性名が記入されている。私は何か別の話でも聞いたような気がして、ぼんやりとした妙な余韻と、空に漂った私の好奇心が小さくなって行くのを感じた。
家に戻ると母は刺繍をしていた。裁縫籠の横にチョコレートをおいて、テーブルクロスの周りを青色、黄色、を交互に入れながら綺麗な模様を縫いこんでいる。配色は夏の太陽に良く似合う。そしてプロヴァンスの景色に溶け込んでいる。私はパンを台所に置き、パン屋さんの行列の中で耳にしたヒソヒソ話をしてみた。母は
「そうよ。あの方達は兄妹なの。」と、そしてそれ以上は何も語らない。
仲良く、縁の園に包まれ、生まれた時から、そして今も、二人で暮らしている。
決まった時期に決まったホテルに宿泊する兄妹。
家を囲む花々は、二人を世間から遠ざけ、二人だけの世界を造り、周りの誰一人としてこの世界へ入れない。頑固な、そして限りなく、永遠の愛、がそこにあるような気がする。
二人だけの静かな時間が流れている。私もこの話には、もう触れないようにしよう。幸せそうな二人をそっとしておきたいから。
***
「コンピューターの呼吸」
眠れない夜、私はベットに横たわったまま、天井を見つめていた。
何を思うことなくただ天井の染みや、街灯のオレンジ色の疲れた明かりが、上窓に写るのを、ただ、ぼんやりと。
ふと私の耳元で誰かが囁いた。それはふんわりした空気の中から、どこかで聞いたような優しい声。
「誰? そこにいるのは。」
(私)
「誰かしら?」
(私だよ。いつも君を見ている わたし。)
何処にも人の気配がない。体温も湿度も香りもない。私は目を見張るのをやめて薄く細め、明かりだけが感じるように意識を集中した。
私の呼吸と同じリズムの生き物がいる。確かにそばにいて私を感じている。そんな気配がして、ベットの周りをぐるりと見渡した。コンピューターの小さな明かりが付いている。その明かりが私の呼吸に合わせてふわ_ふわ_と輝きを放っている。
(やっと気がついたね、私だよ。いつも君に大切なメッセージを送っているだろう? )
「ええ、たぶん。」
(そう、君は気が付いたね。)
「ええ、たぶん。」
(じゃあ、君が本当に気が付いたかどうか、いいかい。これは私の為ではなく、君自身が知る為にすることだよ。)
「ええ、いいわ。」
(ふー)
「!」
(ふー)
「そうね、やはり、貴方だわ。」
(よかった。これでしっかり会話ができる。)
懐かしい呼吸、いつも私のそばにいてくれた。私が必要なメッセージを誰かを通して、私に送ってくれていた。そうね。確かに貴方だわ。貴方のお陰で私はいつも安心している。貴方がいるから・・・私は。・・・声にならない、独特な私達の会話でそう囁いた。
(ふー、ふー、ふー)点滅している。呼吸に合わせて、私達の意志の疎通ができていることを、点滅の方法で私に伝えている。
(君は今、幸せかい? もしそうでなければ、信じるがいい。自分の方向が間違っていないことを。)
「ありがとう、落ち着くわ。」
(ふー、ふー、人生には、色々な道を通過しなければならない時があるんだ。今がその時、いつも今が必要なのさ。)
「ええ、たぶん。」
(ふー、ふー、ふー、私に合わせて呼吸をしてごらん。)
「ふー、ふー、ふー」
(ふーふー)
「私は、愛がどんな形か知らない。知りたい。」
(ふー、ふー、愛か、難しいことを考えているんだね。いつもそばにあるのに遠くにあると思っているのかい? )
「だって、どんな形なの? 」
(形なんてないさ、タイプも無い、約束も無い、スタイルなんて何もないよ。)
「でも、愛がないと生きられない。」
(ふー、ふー、これが愛。どこにでもある。誰にでもある。ここにも。あっちにも。全てに。)
「街灯の明かりの、疲れたオレンジ色の、ランプの中にも? 」
(ふー、ふー、そうだよ。どこにでも。望んだ所にあるよ。だから、安心して眠りなさい。さあ、お休み。)
「あっ。待って。まだ足りない。」
(ふー、ふー、これが通じれば大丈夫だよ。さあ、私はいつもそばにいるから、安心して眠りなさい。)
「いやだ。未だわからないことが、いっぱいあって眠ることはできない。」
(じゃあ、もう少し語ろう、気が済むまで。)
「抱いて、欲しい。」
(、、、、、)
「愛しているなら、私を暖めて欲しい。」
(、、、、)
「愛している証に、私を暖めて。」
(、、、、)
「ほら、無言のまま、又私を放置する。これだから私は孤独になり、愛を探すようになる。」
(、、、、)
(ふー、ふー、ふー、愛しているよ。とっても強く愛しているよ。
判って欲しいのは私の方だよ。だけど君を暖めることは君自身しかできないんだ。肉体は愛の表現だろうか? それで人生の終わりまで愛をつなぐことは可能だろうか? )
「でも、何をヒントに愛されている証にすればいいの? 」
(ふー、ふー、ヒントなんてないさ、感じること。信じること。ただそれだけのこと。でもとっても大切なことなんだ。)
「ただ、信じること?」
愛されている証は何もない。ただ感じること。ただ信じること・・・。
愛の存在の無形、無臭、無湿度。
焼けどしそうな熱と、強いにおいと、汗のエネルギーが愛だと思うこともある。
静かな空気の中の、美しい心の中の、穏やかさの中の愛を求めることもある。
愛の矛盾は穏やかな愛と、熱くてがまんならない愛が絡まっていること?
「教えて・・・」
(ふー、ふー、ふー)
***
「深夜のプールに」
南仏も10月に入ると、すっかり静かになる。
つい先月までは、観光地として賑わっていたヴェゾン。
色々な国から人が集まる夏。オランダ、ドイツ、ベルギー、そしてパリからの観光客が、まるで波が引いたように消えて行った。
人々が去った後は、ぶどう畑の収穫、ラヴェンダーもひと夏の紫の時代が終わりグレーに変わる。ほとんどが香料として刈り取られ畑も寂しくなる。
山々には黄色や赤に染まった葉が秋を伝える。
夏の置いてきぼりのプールには、コケが生え緑色に染まった水が、風に揺れている。水面からの太陽の反射が不思議な光のハーモニーをかもし出している。この夏も例年のように大勢の家族ずれで賑わったプール。芝生で日光浴する人、読書にふける人、子ども達とボールや浮き輪ではしゃぐ人。色々な家族が過ごした南仏のバカンス。
夏の間、私は人ごみを避け、ひっそりと独りで月の光の中を、このプールで泳いだ。
満月を仰ぎ背中で浮く。両手を広げぼんやりと。そして宇宙との対話を楽しんだ。月明かりで水面がやさしく輝く。
思わず大きな力に、吸い込まれそうになる。不思議な力に寝返りを打つように体をねじる。水面より下に顔をうずめ、水の中の世界を観る。音の無い、ただ静かな世界がそこに在る。この力は私という生き物を何の抵抗もなく、溶かして行く。
寛大な流れが漂っている。もし此処が海なら、そんな無限を感じさせる水の不思議。様々な生物が存在する海へと私の体は流れている。どんな生き物であろうと、当たり前のように、全てを受け入れている水。私達が未だ会ったこともないような、生き物がいても何の不思議も無い。水の中は大きな世界なのだから。
プールの底。ふと角にある深みへの印に目をやると、錯覚だろうか? 何かが動いたような気配。私は好奇心に引き込まれながら深く潜り、その気配があった方へとゆっくり泳いだ。すると、私のすぐ横後方に何かが! 流れるように優雅な動きを魅せる。
何か、いる!
私はもっとしっかりその何かを見る為に、呼吸を整えなければならなかった。
息をつく為に一度、水面上に顔を出す。そして又水の世界へ、今度はさらに深く潜る。動きがあった方向へさらに。
だが、さっきの気配はもう無い。何だったのだろう? 不思議な空気がそこには確かにあった。イメージして思い返してみる。
ブロンドの長い髪、白く美しい顔、なだらかな肩、細く長い腕、足は腰の辺りから長く、長くどこまでも伸び、あとは思い出せない。
ただ、その人は私に話しかけるような目、右手をひらりと合図したような、そんな気がした。美しい人。
ゆるやかに、素晴らしい泳ぎをしていた。
そんな水面下の世界。ほんの一瞬の不思議な世界。
私はゆっくりと顔を上げ、月に尋ねた。
今の、あの不思議な世界は、貴方の イ タ ズ ラ ですか?
月は私を見つめ、いっそう輝いてみせた。
***
「変動音」
足元のごみを拾おうとして、ひょいと腰を曲げた時、私は聞きなれない音を聞いた。ジージジ ジジージジ ジと続いている。
腰を伸ばすとその音は消える。私の体から発しているのか、それとも机かラジオに金属の共鳴か? その場の周りを探ってみても、それらしき物は見つからず、また腰を屈めてみる。やはり音がするというより、そこに継続している、その一点のみに存在している音。
休むことなく続いて、大きくも小さくもなることなく、一定のリズムと一定のエネルギーを使っている。もし私がこの場所で、ごみを拾わなかったら、出会うことの無い音。
コンピューターのスイッチを入れる。起動音が鳴る。
生きた情報が入ってくる。誰かのメッセージが映し出される。ニュース、株の動き、今を知ることができる。日本の各地で起きている出来事がリアルタイムで見ることができる。私は今、フランスの田舎に居る。
ジージジ ジジージジ ジの音は、普段の生活の中に感じていなかった音。
何処が発信地なのか、何かの振動音なのか、まったく解らないまま、ある一点だけに、空気中に、私だけに伝えた、何かのメッセージ。
宇宙の大きさ、時限、距離、測る目安が変われば、不思議なことではないのだ。変動音が地球内からの音だと、証明できるだろうか?
***
「カナル・デュ・ミディ」
僕達は小学校から南仏の歴史を調べる授業で、カナルデュミディ南仏運河を流れる舟に乗ることになった。
先生は、
「この運河は17世紀から始まった。」と僕達の前に立って説明を始めた。そして皆を誘導して乗船した。船内は部屋が3部屋とサロンに台所が付いている。部屋にはベットもあり、宿泊しながら運河を流れることができる。今日は僕達が半日このクルーズを借りて歴史を学びながら、デッサンもする楽しいコースになっている。先生は大まかな話をすると、操縦席へと入った。先生は僕達に説明が聞こえる範囲で、自由にしていなさい。と告げて続けた。
「この運河ができるまで1666-1681の間、工事についやされた。現在は241kmの長さが残されている。」
川の水の流れが止まったように感じるのは、ダムがあり山々を流れる水位調節の役割をしているから。高さが異なる場所へさしかかると、ダムが開き2つ目のダムとの間に船が入る。そして水位が調節されて後方のダムは閉じる。
僕は先生の話を聞きながら、この時代を超えた美しい景色に見とれていた。
途中で船を止めた先生は、
「ここから少し散歩しよう。」と僕らを誘った。
皆、喜んで船から降りた。細く長い川に沿った美しい道。先生はこの道も昔の人が使った小道だと説明してくれた。
なんだか、不思議な気がする。昔の人が歩いたこの道を、21世の僕らも同じように歩いていること。そして、この川は色々な人間や物、歴史を運んできたのかと思う。17世紀の頃の景色や僕達と同じ年の子供達が、この川で遊んだこと等、想像するとドキドキした。
少し道から外れた所にピクニックができる広場があると、先生が教えてくれた。そこで昼食を取る。今朝母が作ってくれた、サンドイッチを楽しみにしていたので、僕のお腹はグーとなった。僕は走って広場へ向かった。
1本の大きな木のそばを通った時。
真っ白な雲に入ったようなほんの一瞬だけど、湿った空気にひんやりとした。振り向くと何もなかった。友達が僕の後について走ってきた。
先生を中心にして、僕達は円を作り昼食を始めた。
そこで、先生はこの運河の話を続けた。
「カマルグからトウールーズまで、もっと昔は地中海からガロンヌ川まで、つながっていた。」と説明してくれた。この運河は運搬用に利用されていたのだそうだ。サボンや食品や色々な商品を、運河で運んでいたのだ。
僕達は現在クルーズで景色を楽しみ利用している。歴史は面白い。時代が変わっても利用方法が変わっても、人々は継続して残してくれたものを、このように味わうことができるのだから。
「僕は先祖に感謝するよ。」と言って、クラスメイトに笑われた。
僕と同じ考えの友達が3人ほどいた。
「君は正しいと思うよ。先に生きた人間が作ってくれたから、僕達は歴史も楽しめるし、大切にできるのだもの。」
僕達は昼食を終えて、少しボール遊びをして船に戻った。先生は此処でスケッチをするようにと言って、皆に白い画用紙を配った。
皆は好きな方角を自分で選んで、其々の場所に座り込んだ。僕は船のデッキから、昼食をした広場が見える位置に腰掛けた。
その時、走った時に感じたひんやりした湿度のある場所を、通過したことを思い出した。
「なんだったんだろう? 」その辺りに目をこらしてみても、別に特別な様子はなかった。僕はデッサンを描き始め、そのことを忘れていった。
2
翌日、学校へ行ってみると、僕の机に1枚のメモが置いてあった。
(音楽室に行きなさい)と書かれている。僕は誰が書いたのか知らないけれど、とにかく行ってみることにした。教室の前まで来るとシーンとして、誰もいない。ドアを開けると湿った空気があった。あの時のようだと僕は思った。
教室の角にグランドピアノがある。その前まで行くと楽譜が立てかけてあり、風がページをサラサラとめくった。ふと見ると、ビバルディーの「季節」が出ていた。
僕は何気なくピアノの前に座り、楽譜に合わせて鍵盤を叩いた。美しいメロディーが流れた。僕は止めることができないほど、ピアノを弾き続けた。
どれぐらいの時間がすぎたのか、気が付いたら教室や廊下に大勢の人が集まっていた。友人も先生も笑顔で立っていた。僕が椅子から立ち上がると一斉に拍手が沸き起こった。
僕は今まで一度もこんなに拍手を貰うほど、ピアノを弾いたことがない。
嬉しかった。皆が喜ぶ顔を見た時の感激は、忘れることができない。
僕は今日の出来事を家に帰って母に話した。母は少し驚いて、僕のおじいさんのおじいさんが音楽家だったことを話してくれた。僕はピアノが大好きだけど、値段も高いし、母にねだることはできないから、好きなことを我慢していた。でもこの話を聞いて、母は本当に嬉しそうだった。
そして次の日、学校へ行くと、教室に
「おめでとう!」と大きく書かれた幕があった。そして、その下に僕の名前が書いてある。
「何が起きたのですか? 」と先生に尋ねると、先日僕がピアノを弾いていた時に、市長さんや音楽関係者が、村のコンサートと催しの打ち合わせで、偶然に僕のピアノ演奏を聞いていたのだそうです。そして、この夏のコンサートに僕が演奏することが決まったということです。さらに、僕の家に今、ピアノが運ばれているというニュースも。
僕は気絶しそうなほど嬉しかった。あのカナルディミディで行った、散歩道からあの場所、あの広場で、僕のおじいさんのおじいさんもコンサートをしたんだと、母が話してくれたことを思い出した。
***
「地中海に浮かぶ心」
マルセイユからクルーズの旅に出ることにした。
キャビンとダイニングキッチン、デッキには食事ができるようにテーブル、椅子がくくりつけてある。2組のカップルが利用できる。
私と夫はお互いの友人でもある、昔のクリエイティブな仕事仲間を誘って、海の旅に出た。其々の荷物を運び込み出発。地中海に出ると風は少し湿った海草の香りから、無臭に近い地球の香りへと移っていく。途中エンジンを切って帆を立てる。風にのってギリシャに向けて地中海に浮かぶ私達の船。明るい太陽に心地良い風。私のドレスの下は水着、気が向けばいつでも海に飛び込む用意ができている。これから始まる私達のクルーズの旅。
太陽が頭の真上まで来ている。朝焼けのさわやかな色から銀色の強い日差しに変わった。フランスのバカンスは長い、2_3週間はたっぷりと旅ができる。
しばらく進むと美しい地中海の真っ青な海の上、帆をたたんで日光浴を楽しむ。波の少ない透き通った場所で、私はドレスを足元に落とし、海に飛び込んだ。
ザブーンと心地良い水を切る音がして、私の右の耳がキーンと鈍い痛みと共に音を内耳に響かせた。子供の頃からいつも右耳だけが変音を吸収する。
夫と友人夫婦ベロニックとロホンは船の上でアペリティフを準備している。
今朝出かける前に、私がバスケットに詰めておいた、サーモンマリネとスナック。アルコールはワイン、パナシェ、パスティスと自家製のクルミ酒。
私は波に身を任せながら、船の上にいる3人を眺めている。バスケットからワインを取り出している夫と友人の妻ベロニックを中心に。
彼らには不思議な思い出がある。
誰にも言わない秘密の思い出。
誰からも聞かない秘密の思い出。
私には見える、秘密の思い出。
私には聞こえる、地中海に浮かぶ夫とベロニックのテレパシー。
過去の思い出を瞳で味わっている。ロホンはそれを知らないか、知らない振りをしている。もうどうでもいいこと。私にとっては知りたくもないこと。でも消すことができない過去をこうして引きずっている。
私は泳いだ。もぐって美しいカラフルな魚達と遊び、水面下から見上げるダイヤモンドのような太陽。これさえあれば別に何も恐れることは無い。太陽は私にエネルギーを降り注いでいる。寂しくない、地球にいて、太陽があって、海があって、私が居る。
2
地中海の水温も、景色も、全て私が望んだモノのように、完璧に幸福へと導いてくれる。何があろうと私はこの地球のひとつの命として、存在していることを明確にしてくれている。
私は心の整理が済んだことを自覚し、ロホンに手を振って、浮き輪を投げてもらう。そして、ゆっくり彼はロープを巻きながら私を船へと引き戻す。彼の爽やかな微笑みが心地良い引力となっている。
船に近ずくと彼は私に手を差しのべる、そして私は遠慮のいらない彼の手に自分の体重を任せる。彼の瞳はブルー、この海の色。
力任せに引き上げた、その腕に残った力が、私の体を彼の胸の中へと包む。
そしてしばらく彼はそのまま私を解放しなかった。ほんの一瞬のこと。
「アペリティフの準備ができたよ。パスティスでいいかい? 」夫の白い歯が健康そうに微笑む。
「ええ、いいわ。ありがとう。」私は答える。
ほんの数分の私の海の時間とその同時間に、この船の上に存在した夫とベロニックのテレパシーのスピードは、夫と私の会話とは時限の違う速さで的確に行われていた。質問不要の濃い会話がそこにはあった。
私は濡れた水着の上からバスローブをはおり、デッキの椅子に腰掛けると、隣にロホンが腰掛けた。前に夫、その隣にベロニック。
キラッと光るネックレス、ベロニックがかけているそれは、私に突き刺さるような輝きを発している。夫が独身の頃、誰かに買ったプレゼント・・・。古い記憶が行ったり着たりしている。
あれは確か・・・夫は誰かに・・あれは・・ベロニックに・・・そう感じた時、私の前に座っていた彼女はパスティスが入ったグラスを揺らしながら、空いた手で無造作にネックレスに指を絡ませ、夫を見つめ、そして私を見て微笑んだ。
突然、船が大きく揺れ、私達は船後方へ滑るように倒れこんだ。グラスが割れる音、ベロニックの悲鳴。でも私は声も上げなかった。ただ大きな無気力の世界にいた。倒れた場所で無抵抗に、私は人生を何かの力に任せている。そのまま座って海を眺めた。
夫とベロニックの過去がストーリーとなって、細かな日常が私の目の中に繰り広げられ、私は今の時空間ではない所に追いやられている。その扉を開けてしまった私の脳裏が後悔することもなく、ただ知りたいことに集中して、どんどん次の扉、又次の扉と開け始めている。
ロホンは私が船酔いでもしたのだろうと、冷蔵庫からミネラルを持って私の隣に腰掛けた。ロホンは私にボトルごと渡すと、言葉もなく子供のような笑顔でやさしく微笑んだ。
(貴方は気付かないの? )私は目で伝えようとしたけれど、あまりに澄んだ彼の美しいブルーの瞳に動揺し、私はこの不快なテレパシーを打ち切った。この人には苦しみやジェラシーは不要のもの。私は感じることを伝えないことに決め、私自身も彼らの不思議な様子に目を伏せよう。
夕食は夕陽が沈む時間に、合わせてゆっくりと楽しんだ。
パシャリと軽い音を発して、魚が船の横で跳ねた。
海水から飛び出し、新鮮な空気に触れることを遊んでいるように・・。
3
夕陽がくれた元気で私は、又いつもの私へと戻っている。ひとつの狭い世界に閉じこもることは無い。自分を解放して大きな世界に目を向けてみればいい。この地球が私を乗せて幸福へと運んでくれる。信じるがいい。どこまでも信じるがいい。
夫からロホンへと、私の何かが移動し始めている。ジワリ、ジワリと太陽がいたずらを始めた。美しく海を染める夕陽は私に何かを求めている。
アルコールも手つだって私の心は広い海に広がって行く。惨めな思いなどすることはない。私は私の幸福の形を持っているから、こうして自然と語り合う私がいれば何も恐れることはない。
私達4人は其々の心を持ち、其々の思いと其々の幸福の形を見つめている。夫は混乱の愛を持って幸福だろうか?
私達は其々の部屋に入った。奥の寝室を私達夫婦。デッキ中央の下にロホン夫婦。ひとつの壁を挟んで隣り合わせになっている、2つの寝室は私に圧迫感を与えた。今夜はあまり眠れない。そばにいる夫の寝たふりが、重く暗い空気を作っている。夫は何かに集中して聞き耳を立てている。その先にあるのは友人達の寝室。カタンと何かがぶつかる小さな音にも敏感になっている。波に揺れ船がきしむ音さえ苦痛に感じているように。
友人達は夫婦なのだから、何があっても夫の知るべきことではないのに。いいえ、だからこそ、夫の耳は緊張し、抵抗し暗い世界に入り込んでいる。今なら私が外に飛び出し叫んでも、身動きひとつできないだろう。
きっとそんなにも深く、妙な彼の脳裏にある独特な世界へ没頭している。夫がその妙な世界から、開放されることを私は静かに望んだ。あまりにも哀れでかわいそうだから。
太陽が船の丸い刳り抜き窓から朝を知らせてくれた。私は眠ったのか又そうではなかったか? どちら付かずの記憶の中から逃げ出す瞬間を、無駄にはしなかった。私は跳ね起きベットから抜けデッキへと上った。
地中海。青い空と青い海は人間の小さな命を最も大切な存在として、こうして運んでいる。命の数々を色々な場所へ肉体と魂を色々な所へ、いろいろな次元へと運び続けている。
観光客をいっぱい乗せた大きな船が、私達の船の横を通っていく。知らない人達が私に手を振る。お返しに私は微笑み軽く手を上げた。
大勢の人が何かのリズムに引き寄せられ出会う。たった一人のかけがいの無い人と、恋をしたこと、結婚をしたこと、その組み合わせが本物かどうかは誰が知るだろう? 本物の恋をした? 本物の結婚をした? 私は自分に問いかけてみた。(考えるのはよそう)と風が帆をたなびかせ、私を別の世界へと誘う。
4
カモメが帆の先に止まって私の動きを伺っている。エサを投げると流し目で見ながら、すばやく海に落ちる前に口ばしで捉える。半円を美しく描きまた帆に戻ってくる。私を直視しないまま、上手に手元の動きを観察している。
「どこから来たの? そしてこれからひとりで何処へ行くの? 」答えるはずもないカモメに私は話しかける。私の未来への不安に問いかけるように・・・。
ポーポー と汽笛が聞こえる。いつの間にか大きな船のコースに私達の小さな船は流されていた。 注意! の汽笛。
夫とロホンはその汽笛を聞いたと同時に、すばやい行動で帆の調整を始めている。急に風が強くなり思うように転換できない。夫は下へ降りてペンチを探して来た。そしてロホンに渡す。2人は大学の時からヨット仲間で息の合う手際の良いコンビだった。巧みな操作で急なピンチも乗り越えてきた。毎年ヨットレースにも参加し、夫の書斎にはロホンと2人で肩を組みトロフィーを掲げた写真が今も飾られている。
この2人なら大丈夫。男性的で機敏な、そして本能的な2人の行動に、私は頼もしさを感じている。
突然パキッと音がして帆がクシャクシャになった。風が急に向きを変えた。夫の右腕からは血がにじんでいる。方向を変えられないまま大きな貨物船に向かって私達の船は突進している。ポーポー ポーポー ポーポー 汽笛は繰り返し、緊急警告が高鳴った。私達は無我夢中で海に飛び込んだ。
衝突する。私はそう思った。貨物船のすぐ前を通過していく無人の船は、難なく貨物船ぎりぎりで通って行った。哀れな穂はクシャクシャのまま、船は持ち主が戻ってくるのを待っている。しばらく浮いていると風も止み、船の周りにロープつきの浮き輪が浮いている。
4人とも無事に浮き輪にしがみついた。貨物船の後方から
「大丈夫かい? 」と男の声を聞き、私達は安全を知らせる意味で手を振った。4つの浮き輪は其々に私達を船へと引き戻してくれる。ロープをたぐり寄せれば安全地帯に乗り込める。貨物船から緊急援助の必要はあるかと、アナウンスが流れた。夫は必要ないと合図した。
海に飛び込む前に、夫が浮き輪を投げていたことを思い出した。夫のとっさの判断が4つの命を救ってくれた。
私はこの海の中で、ありがとうのキスをしようとした。
しかし、夫の目はベロニックに向けられていた。
5
やっとの思いで船に乗り込んだ。船に向かう途中、私は体は力が抜け泳ぐことすらできない無気力に陥っていた。ロホンが後ろから支えてくれなかったら、海に飲まれてしまっていたかも知れない。
(浮き輪など必要ない)そんなことを思っていた、なげやりな、危なげな私。船に戻った私は口もきけず、バスタオルで体を包んだ。私の深い所から寒さがこみ上げて来る。身震いは水のせいではない。
ロホンは私の塗れた髪をぬぐってくれている。心配そうなあのブルーの瞳で私の心の奥を覗き込んでいる。私は何も言えず、ただ涙が止まらない。夫へのやり場の無い私の崩れそうな愛、それともロホンの親切のせい、どちらが理由なのか解らないまま涙が落ちる。
ロホンはその涙が恐怖からだと思っているように
「もう、大丈夫だよ。もう怖がらないで。」と言いながら私を包んでくれる。
「疲れただろう? 」後ろから夫の声。でも私は返事ができない。口はもう開けられない。夫の為には。
命が危険な時、夫は私ではなく、別の女性を見つめていた。
そのことが、その事実の、夫の脳裏の奥に、潜む何かの、ヒントが私の中で繰り返されている。私は声を出すことができない。
そのまま(海に沈んでしまってもいい)とさえ思わせた恐ろしい無気力。私はナイフでもなく、ピストルでもなく、愛の形で死への入り口に立ったということを誰も知ることはできない。
ロホンがいつの間にか私に熱いカフェを渡してくれていたことに、2_3度、口に含んで気が付いた。カフェの温かさと味、香りが徐々に私の中へ染み込み生命力となってよみがえっていた。些細な事、小さな心の動きで、こんなにも私は混乱している。どうかしてしまった。部屋に戻り休むことにした。しばらくすると夫もベットに入った。私は眠った振りをしていた。
今夜も又眠れない夜を過ごすことになる、夫は相変わらず隣の寝室に聞き耳を立てている。今夜は昨夜とは異なり、友人の部屋からは命の音が聞こえる。
(今日は危なかった、生きてて良かった。)と語り合う代わりに無言の男女のメッセージが体と体で語り合っている。
隣の部屋の情景は、目を閉じれば自然に私にも夫にも伝わって来る。ジェラシーの範囲では無い。すでに別の不思議なエネルギーの、溢れる生命の、古代から伝わる人間の、本来の姿がそこにある。
私はそんな気がして、私達にはもうないかも知れない、本能の愛の形を考えていた。知らない間に私は深い眠りに落ちた。
ギーギーギーと不思議な音がする。横には夫はいない。何処へ行ったのだろう? 外は真っ暗な闇。電気も消して何も見えない。このベットには私ひとり、
6
ギーギーギーと音は繰り返されている。私は瞼を開けようとしたけれど、激しい睡魔に引き込まれ、又、深い眠りに入って行く。洞窟を探検するような恐怖を覚えたまま、闇が深くさらに深くなっていくのを体と脳で感じている。
何時間も眠ったらしい、太陽は高くある。水面がキラキラと反射を投げ、部屋の丸い刳り抜き窓に当たり、私のベットに光が踊っている。夫は昨夜何処へ行ったのだろう?
階段を上がりドアを持ち上げると、デッキには3人が寛いでいる。ベロニックはすでに泳いだようだ。髪はまだ濡れていて水着のままロホンにクリームを塗ってもらっている。
夫はチェアーに腰掛け本を読んでいる。私はグラスにミネラルを取り、海を眺める。カモメもいない、静かな水面、キラキラと遊ぶ光の宝石。
人生はこの船のように浮かび、進み、戻り、波が立ち、狂い、静かになる。そして最初の日のように変わらず、水はキラキラと輝いている。
ふと視線を感じて振り返ると、ロホンが立っている。クリームのついた手をタオルで拭いながら、私を見つめている。私はその視線をはずし、部屋へ戻った。家を出る時に本を持ってきたはず、星と方向をテーマにした推理小説、読みかけのしおりは日本人形の折り紙。たしかバックに入れたはずだけど・・・。
「これかい? 探しているのは、」後ろからロホンが声をかけた。あまりに近い声だったので、私は小さな驚きの悲鳴を発していた。
「ごめんよ。脅かして、本を借りたよ。今朝、朝食を誘った時、あまりよく寝ていたから、そのままにしようと思った。バックの上にあったこの本が目についてね、拝借したよ。素敵な本だね。君らしいよ。ロマンティックだ。 あ、それと、僕は星座には、詳しいよ。」
私は黙って微笑み本を受け取った。ロホンは私の指をかすかに掴み、そして階段を上がって行った。
7
イタリアの岸、船に乗ってから3日ぶりに陸に上がると、体はまだ揺れているような不安定な感じがする。しばらく行くとカフェテリアがあった。
地中海のブルーに似合う白いカフェテリア、ギャルソンが元気に
「ボンジョールノ」と声をかける。毎日大勢の観光客が訪れる。
私達はその中のほんの一部の客にすぎない。数多くの思い出を持った一組の客。私達はエメラルドブルーの海を見下ろすテラスに腰掛けた。
サラダとパン、そしてこの店のお勧めシーフード料理を頼み、ビールを口にすると、景色はさらに色を濃くした。陸からの海を見降ろし食事を済ませ、これからの船中用に食材を買い込むことにした。
「買い物はこの奥の細道を降りて行けば、道両側にフルーツ、野菜、肉が手に入るよ。」とギャルソンが教えてくれた。彼が言ったように、
鮮やかな色の野菜やフルーツが、思ったより安く豊富に手に入った。
船から時々釣りをしてバーベキューを楽しんだので、街では肉を5種類、牛、豚、鳥、ダンド(ダチョウ)ラパン(ウサギ)を買った。
ウサギは形がそのまま残されている1匹丸ごとで生々しい姿なので、私を除いた3人で食することにして、私の分はその代わりにヒレミニョン(子牛の柔らかな赤み)を選んだ。
街を歩く時は、地球のしっかりとした大地にいるのだということを改めて味わう。2泊3日水に浮く生活をしただけなのに、地球の大地がこんなに懐かしく感じる。旅は新しい発見を私に与えてくれる。普段気が付かない尊いことを。
(生きていること、無意識に在ることが、どんなに大切なことなのか)と私はひとり考えながら、3人の会話は音楽のように流れていた。
夫が私の名を呼んで、
「ね、そうだったよね? 」と聞いた。現実に引き戻された私は、何の話だかさっぱり解らない。聞いていなかったし、それにどのような話だろうと、今私が感じていることの他には興味が無いほど、私の思いは有意義だった。
「ああ、又、彼女は月にいたようだ。」と夫の声。
私は夫の問いには答えず、
「地球ってすごいわ。私達は普段忘れていたのね。この恵まれた大地、植物や、動物が私達に与えてくれるエネルギーと、全てのバランスがここに揃っているということ。嬉しいわ。生きているって楽しいわ。」
そう思わず声に出していた。
「オー、ブラボー、ポエムだよ。」とロホンは私の頬にキスをした。
彼の瞳はさらに濃いブルーだった。
8
久しぶりの肉が焼ける匂いに、お腹の虫も騒ぎだした。
「この匂い、たまんない! 」と口々に、これから始まる晩餐を楽しんで準備している。お皿を並べ、ワインは手に入れたばかりのイタリア産キャンティーの赤、野菜は大きなピーマン、じゃがいも等を焼き、サラダもテーブルに並んだ。
夫は最初のワインを一口含みそして、肉に合うワインを選んだことを説明している。
「タンニンが程よくある、苦味のバランスは絶品だ。肉をほおばったまま少し流し込んでごらん、そして口の中でワインと肉のハーモニーを確かめてご覧よ。いける!」と親指を立てて笑った。
私と夫の出会いはパーティーだった。その時もこの様にワインについて語り皆の注目を浴びていた。そして私を彼の隣の席に座るようにエスコートしたのだった。私の知らない知識を豊富に持ち、自信を持って語りかけてくれる夫の話に夢中になった。それからは度々プライベートでパリにある有名なレストランで2人の食事を楽しんだ。フィアンセだと家族に紹介されるまで、時間はかからなかった。
私はいつも彼の話しを楽しんできたのではなかったろうか?
今は遠い昔話のようで、私はこの船のようにプカプカ浮いた感じで、夫のワイン説を聞いている。
ロホンは私のグラスにカチンと音をさせて
「君はまだ月にいるの? 」と聞いた。
少し酔いが回ったようだ。横になりたい。まだデザートが済んでいないが瞼が重くなってきた。あくびも我慢できないほどになった。
「おやすみなさい。そして素敵な夜を。」と3人に声をかけ席を立った。
その時私の目に入ったものは、私の不思議を解明するものだった。
9
夫とベロニック、私とロホンが向き合ったテーブル。私のモヤモヤとした謎は、私が席を立った時に、はっきりと私の目の前に証明されることになった。
ベロニックの足は私の夫のヒザの間に包まれている。夫は少しあわてた様子、彼女は静かに足を引っ込めたが、私を見つめる目は動揺することなく、微笑みすら浮かべている。
私の体は硬直した。そしてはっきりした二人の関係。それに対しての私自身は見失ったまま。その証拠を見なかったことにするか、それとも大騒ぎするか、夫にビンタを与えるか、ベロニックにワイングラスを投げるか。
様々な私の考えられる行動を選んで、そのことが一度に私を混乱させた。
私はそのまま何もしないで、言葉も無く部屋へ向かった。階段を下りる前にロホンを振り返ると、彼は私を見つめていた。優しい眼差しで。あのブルーの瞳で。
部屋に戻ったのは眠る為、でも又、今夜も眠ることができなくなった。船の揺れはいつもより少なく、穏やかな水の上だというのに・・・。
私はロホンから返してもらった本を手にし、眠くなるまで読むことにした。星について不思議なストーリーが世界と恋と人生と天体を奏でている。
素晴らしいこの世界で苦しむなんて。と言うように・・・。
いくつもの星、その星ひとつずつが太陽の輝きを持ち、何億光年の光が私の目に届いている。この桁はずれな大きな存在の中にあって、私はたった一つの私の命の輝きを曇らせている。ああ、なんてナンセンス。
ロホンは星に詳しいと言っていた。今夜はロホンと星について語ろう。時間など気にしないで、夫のことやベロニックのことなど気にしないで。
本を一節きりがいい所まで読み終えると、私はガウンを羽織り階段を上がった。ドアを持ち上げ外を見ると、やはりロホンは星を眺めていた。私はそっとそばに近付き
「綺麗ね。あの沢山の星達は何年間輝くのだろう? 」と小さな声で話しかけた。振り向いたロホンの瞳には涙が溢れていた。
10
私はロホンの涙の意味を問わず、涙が流れた跡を残した彼の頬にそっとキスをした。悲しみの塩の味がした。夫とベロニックは食器を洗っている。楽しそうに笑いながら、今日のイタリアのお店や小道にあったお土産について、あまり記憶に残らないような日常的な会話を楽しんでいる。
人間にもし、チャンネルがあったら、きっとあの2人はバラエティーかニュースの同じ種類に属したチャンネルを持っている。私とロホンは別のチャンネルのようだ。2人のそれは同じかどうかは、解らないけれど・・・。
現実的なこととは別の何かを探しているような遠くを見る目。奥に深い感性。何かを恐れている不安定な空気。それはきっと私とロホンの共通のチャンネルかも知れない。私達は何も言わず、こぼれてきそうな美しい星を肩を並べて眺めていた。
私の脳裏をかすめるのは、ロホンの涙の訳。聞きたいような聞きたくないような、けだるさだけが漂っている。ロホンも私が聞かない限り言わないだろう。それはいつか自然にやって来る。何かのメッセージから知ることができることだから。私はそれに触れることはしないだろう、たぶん。
明日はギリシャに着く。その後私達は1泊ホテルに泊まり、ギリシャを観光する。そして船は専門の人に任せ自宅まで運んでもらう。私達は別々の道で其々の家へと戻っていく。そして今までのように、いつもの生活をする。この船の旅は私に沢山の思い出を残してくれた。
日常の空気とは別の空気に漂った私の命。
様々な心の動きを脳裏に残して。私達の旅は明日で終わろうとしている。
11
ギリシャの朝、夜明け前に夫とロホンはエンジンの音をさせて、海岸に船を寄せ始めた。私はバックに身の回りの物をかたずけ、最後に本を入れる。退屈な時にすぐに出せるように、いつもの習慣で本は一番上と決めている。
夫の荷物をかたずけようと、シャツをハンガーから外した瞬間に、ベロニックのコロンの香りがした。二人は香りが移る程一緒の時を過ごしたということなのか? でも、いつ?
私が深い眠りに落ちた時、変な音で目が覚めた時があった。いつもならそのまま起きてしまうのに、あの時は妙に睡魔に沈んでしまった。
あの時は、ロホンは何をしていたのかしら?
私は隣の部屋でベロニックが荷物をまとめていることを確かめてから、デッキに上がった。ロホンに本を渡す振りをして、片手に本を持ち
「ロホン、この本が気に入っていたのならあげるわ。私は昨夜読んでしまったから・・・。」そう夫にも聞こえるように言い。ロホンが私に近付いた時、
「3日目の夜、貴方は何処にいたの? 」小さな声でロホンに尋ねた。
「ああ、久しぶりにぐっすり眠った日だ。どうして? でも変だね。僕は船の中ではいつも眠りが浅い。そとの水の音が常に聞こえるんだ。でもあの日は何も聞こえない程、深くねむったな。」とぼんやり思い出している。
「私達は眠らされていたの。あの日眠る前にベロニックはチザンヌを入れてくれたでしょう? 疲れが取れるからと言って。私は眠りが異常なほど深かったわ。あの日貴方も眠っていたのね。」
私はそれだけを確認すると、ロホンに本を渡して部屋へ下りた。
夫のシャツの匂いを早く消したかった。
ギリシャの岸が近くなると、眩しいほどに白い建物が、青い空と青い海に挟まれて、異国の空気で迎えてくれた。私は、はっきりとした覚悟を持って、ミコノスに降りた。
バックの中は私の物、ボストンバックには夫の物、いつもなら洗面用品や重いものを夫のボストンに。服や下着の軽いものを私のバックに入れる。今日は別々に荷物を分けている。これからもずっと、私達の下着が重なリ同じバックに入ることはない。
12
ホテルに着くとロビーでは、笑顔のボーイが、風通しの良いテラスにウエルカムドリンクの用意がある事を教えてくれた。荷物を部屋に運んでくれている間、私はハーフビールを飲んで、喉の奥の苛立ちと渇きを癒した。
部屋は別にしたいところだけど、夫はまだ私の決意を知らない。今夜はこの旅の最後の日。二人で話し合うか、もしくは最後の夜を何も語らず、私からの(さよなら)のテレパシーを受け取るか? 夫はキャッチできるだろうか? それとも又、私とロホンに睡眠薬入りのチザンヌを準備するかしら?
部屋に荷物が整えられている頃、私達は散歩に出かけた。
ギリシャの街を歩きながら、私は一人で買い物があると口実を作り、一人になれる場所を求めて海岸まで戻ってきた。そして海を眺めていた。
ただぼんやりとした時間が欲しかった。何も考えたくない。歩きたくもない。夫の声も聞きたくない。ただ一人の時間で胸いっぱいに呼吸したかった。青い空、青い海、とわたし。
数時間が過ぎたのだろうか、後ろのレストランでは食器の音が聞こえ、人の話し声が始まった。私は肩からワンピースの紐をはずすと足元に脱ぎ捨て、海に体を任せた。限りなく青い。もぐって魚のようにゆっくりと泳いだ。人間の浅はかな考えに疲れていた。他の動物も自分の欲でこんなおろかな事をするだろうか? 私は被害意識など受け入れる気にはなれず、私の存在のみを考えたかった。何処でどのような人生をおくりたいか。誰とどのような人生があるか。
もしくは、ひとりで何ができるか。ありとあらゆる方法を思い。そして魚のように泳ぐことだけをいつまでも続けた。
深く沈み、外の音など、聞こえない、静かな世界に、私は幸福を見つけようとしている。
13
息が止まればいい。このまま海の中へ、自然に溶け込
むことができれば、どんなにらくだろうか? 深くもっと深く沈んで・・・
魚たちの群れ、輝く太陽は小さな魚にさえ、光をあて
ている。魚たちは一斉に方向を変えた。輝く光の中で誰が決めるともなく同時に。
美しい・・なんて美しい・・世界なのだろう。
魚たちの群れに合わせ水中から上を見上げると、太陽
が私にも降り注いでいた。水を通してなお、私に光を当てている。
遠くで人の声が聞こえる。それは私の小さな頃の独り
言。
「大きくなったら大好きな人の奥さんになるの。そし
て子供と一緒にお買い物をするの。クリスマスには夫にセーターを編むわ。」毎日の小さな出来事の繰り返しが夢だった・・・。力が解けていく。海の中に沈ん
でいく私の体。もう聞こえない、人の声も嘆きも何も届かない所へ行く。
ロホンは心配しているだろうか? あのさみしそうな
美しいブルーの瞳。もう一度あの目を見たかった。二人で静かに見つめあうだけの時間が欲しかった。私たちには言葉はいらない。疑いも、批判もない。ただ静
かな時間の流れが全てを包んでくれる。
小
さな光が上へ向かってひとつ、ふたつ、みっつと上がっていく。徐々にその光は大きくなり長い尾を引いてゆらゆらと揺れている。私の腕を柔らかく掴むものが
ある・・。
私の体は太陽に吸い込まれていく。
***
パリ編
「アンニュイの正体」
朝から雨が降るパリ
目が覚めたまま体を起こしたくないベットの中の居心地
怠け者のあせり
何かが通り過ぎた、たそがれ
好奇心を残してたたずむ
すべきことをしたずーと後に訪れる何か
虚脱、脱力
新しい夢が訪れる少し手前
空白の時
小さな嘘のくすぐり
生まれた意味を探る、どうどうめぐりの途中
明日が自動的にやってくる間の今日
明日の遠い思い出
古い過去の近くに在る呼吸
知らない人へ送る幸福の願い
虹の下へ向かって追いかける少年
水分を求めている体
心の片隅の乾き
語りかける夕陽の静けさ
込み合ったメトロに押しつぶされ降りることができない自分の駅
通り過ぎた母性
後ろにある守護霊のやさしさ
詩人が語る世界
真昼を通過した白い月
遠い昔の父と母のひそひそ話し
祖母の白いおっぱい
子供の頃の弟の笑顔
娘の寝顔
少しの幸福と不安
知らない事への苛立ち
今日の命の音
内臓にある魂
空想の世界の天使
地球の外の何かとの間
これらのもっと無限の当ても無い
言いようのないものと私の心
***
「意思の表現」
今は閉じられたままになったレストラン。看板も無い入り口の小さなドアを押すと、カランカランと鐘の音がした。
周りは賑やかなパリ5区。一歩ドアの中に入ると異次元な空間。
奥から2番目右テーブル、こちらに向いて座っている老紳士。
目線はさりげなく膝に置いたジャーナルに向けられている。
ドアを開ける音で、私の存在を知っているはず。確かめることも無く静かに下を向き読み続けている。昨日会ってから今日で2回目。すでに何でも私のことを知っているような、安心した空気に包まれている。
彼の向かいの席に、私は静かに腰掛ける。読みかけの物を切れのいい所まで読んでいてかまわない。私はいつまでも待っていてもいい。この人がくつろいでいるのなら、その時間は何よりも大切な時間となるのだから。
彼はそっと目線を私に向け、ジャーナルを閉じた。そしてゆっくり暖かく微笑み、立ちあがり私の右手を取りキスをした。
「ボンジュー、マダム」
私は彼の頬にキスをしたい衝動にかられ、こらえた。
遠くから、もう少しの間もっと遠くから見つめていたい人だから。
年齢は私の母と同年ぐらい、 髪には白いものが多くなりウエーブのかかった柔らかなブラウン。茶系にそろえたジャケットとシャツ、ズボン。センスもさりげなく上品で落ち着いた雰囲気。
彼の指は男性的な形、ペンか本しか持ったことがないような美しい手なのに、骨格はしっかりとして、バランスの取れた形の良い手。シャーナルをテーブルに置く仕草は、音の無い風に乗って自然に動くような、その間彼の目は優しく私に向けている。
もし私がもっと前に会っていたら。そんな思いが強く突き抜けて行く。
2
前世の約束があったかのような出会い。それは、昨年の冬、ホテル経営の情報が舞い込んだ寒い日。漠然と何年も前から私の脳裏に浮かんでは消えて、何度も繰り返された無意識の構造。青写真のようにぼんやりしたまぼろしの計画。誰に告げることなく浮かんでは又消えて行った。
その日、私達は家族でスキー場に居た。一面の銀世界。平日ということもあり、山には私達親子3人とスキー場で働く数人のスタッフ。太陽が強く白銀に跳ね返り、私はサングラスを取りに車へ戻った。その時だった。携帯電話が鳴ったのは。
留守番電話からの転送システムでメッセージが残されていた。
「ホテル経営の件でお話があります。再度連絡します。」簡単なメッセージだったが、私の胸は高鳴った。
サングラスをかけ携帯電話をポケットに入れる。山を見上げると真っ白な雪に太陽が反射しキラキラと輝いていた。
あの日から1週間とたたない内に数回の電話で、彼の意向をほとんど聞いた。
私は今、パリにいる。そしてこの紳士と会って2日目、私達はすでにお互いの考えや感性について、通じ合うものがある。
人生をかけてみたい。そう思わせる彼の静かな暖かな視線。
彼の瞳の輝きは、まるで昔恋人だった人に突然会ったような、驚きと懐かしさと愛しさと戸惑いが入り混じっている。何年も会えなくて人生を遠回りしたと言いたげな眼差し。
「私は日本に暮らしたことがあります。」彼はそう呟いた。
やはり、私の中に遠い記憶を戻しつつある。私は静かに次の彼の言葉を待った。
「彼女は医者になるために勉強していた。そしてそれか叶えられた。もう随分前のことだがね。その人は君に似ている。」彼の声は低く、そしてよく通る優しい声。その恋人は自分の夢に向かって充分に生きたのだと言う。彼の声には包容力と少しの諦めが混じっていた。
彼女との恋の延長線にあるはずの人生は、2本のレールの上を別々に走り、混じることはなかった。彼の諦めは彼女の夢を叶える為に、彼が飲み込んだ愛の形として影を残している。
こんな大きな包容力を私は感じたことが無い。世界の全ての可能な限りのエネルギーを、一人の女性に使い果たした男のロマンがそこにある。恋人が望むのであれば、お互いに別々の道を走ることを受け入れた。それが例え人生に必要な人であったとしても。
何がここまでの強さを、彼の中に閉じ込めたのだろう?
私は会うべくして会う人生の不思議なエネルギーを、かすかに感じ取っていた。
私の中の鈍い疼きが、少しずつ熱くなっていく。この瞬間の全ての為に、今、私は存在している。
この空気に囲まれていたい。彼のそばにいたい。前世では私の父だったか。夫だったのか。最愛の兄だったのか? 懐かしさがこみ上げてくる。多くを語らなくてもこんなに私はこの人を求めていた。探していた。
どうしたらいいのだろう? これからビジネスの話をしなければならないと言うのに。このままこの空気に酔いしれていたい。話なんてなんの意味があるのだろう。
私たちはテレパシーで会話ができているのだから。
***
「オペラ座」
パリオペラ座、美しいシャガールの天井や、入り口に堂々と構えるオブジェとなった音楽家達、其の他にも古典的な客用シート、壁に書かれた絵、シャンデリア、階段にも施された繊細な芸術に圧倒される。
2階部分から個室用のロージュ(ボックス席)があり、2_3列4_6人用に並べられた椅子。其の後方はコート賭け、赤いビロードの布で覆われた長椅子、各ロージュに付いたドアと鍵。長椅子からはステージは眺めることはできない。音楽だけが聞こえる。誰からも見られない隠れた所に置かれている。荷物用にしては布の張り方が請っている。付き人が控える場所か、もしくは秘められた場所として利用されていたことは想像するに難しくはない。ナポレオン3世、19世紀後半の時代の香りが漂う。
ルイ14世が最初にオペラパリを建ててから、13件目となる。
私は父の友人に誘われ、このオペラ座に入った。係りの女性にロージュに案内され、クラシックバレーが始まると、外からドアが閉められ鍵がかかる。私とムッシューとクラシック音楽とバレーの世界。ステージに向かって左側の前から4列目のロージュ。私達の2客椅子後方に4人分の椅子がある。今日は私達2人の為に後方は空いている。
催しは(シンデレラ)ストーリーはよく知られている、貧しい娘がガラスの靴で王子の后になる物語。それをアレンジして貧しい姿の娘は1晩の魔法によって美しく着飾ることが許され、片方を残したダンスシューズでスターになる物語。ダンサーの美しい手、足、うなじ、腰の流れるような動きに、私は思わずため息を付く。
彼は私の感動の居場所を探っている。私という人間がどんなシーンで感動するのか興味を持って観察している。しばらくすると、私をステージよりに腰掛るようにエスコートし、彼は後方から包むように椅子を変えて腰掛けた。
私の感動が他の観客とは異なるような時、彼は喜び、私の膝に手を乗せる。そして体温で彼も感動していることを伝える。
私の背中の開いたドレスで彼の息が直接背中にかかる。綺麗に整えられた彼の栗色の髪は、やさしい男性の香りがする。彼は私の首筋にそっとキスをした。
ダンサー達の溶けそうな動きに合わせ、私達も幸福のリズムに入って行く。オーケストラとの共鳴と宇宙に漂う私達の魂。
目頭が熱くなる、こみ上げてくる感動を遠慮もなく表現できるこの個室用ロージュ。天井に向けて大きく呼吸する時、シャガールの絵の意味が見事に伝わって来る。天使が泳いでいる。
この場所に相応しく在るべくして存在している。シャガールの絵。そして私達ふたり。私達は親子ほどの年を越えて、大きな愛に包まれている。
このロージュは、時代を超えて幾つもの恋を見て来たのだろうか?
オペラ座の怪人も今の私達の恋を、どこかから眺めているような気配がする。
オペラ座を出る時、私は階段にいた係りの男性に尋ねた。
「オペラ座の怪人が住んでいた洞窟はあるの? そしてそれはストーリーのヒントなの? それとも本当に? 」
「マダム、このお話はとってもミステリーです。洞窟は実存します。そしてこの話が本当かどうかは秘密です。今も彼はこの洞窟に居るかも知れませんよ。ほら、貴方の横で貴方に語りかけようとしている。」
***
「パリのお墓」
遠い過去から何かの縁に導かれ、私はパリのお墓へたどり着いた。入り口に入ると、そこは緑の木々に囲まれた静かな時空。
このお墓の地図を見ると、多くの有名無名の人が眠っている。
日本から船に乗り長い旅を終え、フランスに着いた当日に息を引き取ったパリを知らない日本人のお墓もある。国籍に関係なく作家、建築家、音楽家、画家、映画関係者、其々の人生を終えてここに眠る。
様々な思いを込めた墓石のデザインが、その人と残された家族の雰囲気を伝えている。8歳で亡くなった犬と戯れているかわいい子供。恋人に殺された女優。しばらく石畳を行くとラビアンローズを歌った歌手のそれには、歌に合わせ真っ赤なバラの花が一輪、新しいのが添えられている。私は彼らの人生を其々に空想しながら歩く。
有名な作家のお墓は、後半ホテル代も払えないほど、貧しかったにも関わらず、大きくりっぱな、彼に相応しい形を残している。その墓石の前には、大勢の人が集まっている。生前、彼はタバコの煙に目を細め、そして胸深く吸い込み、苦しい体で、ホテルの壁を見ながら死んでいった。彼のお墓には大勢のキスの跡が残っている。アイルランド人でありながら其の当時、人権すら奪われたホモセクシャル。国外追放の為ここフランスに眠る。宿泊先のホテルでは、作品を書きながら自分の死が訪れていることを悟っていた。
「私はこの壁紙が気に入らない。私かこの壁紙か、どちらかが無くなればいい。」最後にこう語った、その人はオスカー・ワイルド、1900年没。
様々な人生。この場所にあってこの場所を望まなかった魂もある。
この場所に眠って、すでに何世紀も過ぎた人と共に眠っている。
時間と空間の不思議。時に追われている間は見えない空間。
このシムチエー(お墓)は、私に何かを語っている。(時間に追われることなかれ。人の存在の意味は時間ではなく、別の意味がある。)そんな声を聞いたような気がする。
帰り道、向こうからゆっくり歩いてくる男性ひとり。彼とすれ違う時、私の視線は石畳へそして意識は彼の存在に。人と人が交差するオーラに触れる。私はしばらく歩いて振り返る。と彼は立ち止まり、ゆっくり私へと視線を合わせ微笑み、帽子をつまみ少し上げて会釈した。彼の動きがスローモーションのように素晴らしいシーンとなり、私は大きな満足を感じた。私が彼に微笑みを返すと彼は納得したようにうなずき、又前方を向いて歩き始めた。彼はこの時間のこの空間の中に必要として現われ、通り過ぎて行った。
2
その夕方、私はアパルトマンから買い物に出かけ、道でバッタリ友人に出会う。其の友人はいつもパリにはいない人。3年間、会わなかった大切な友人。私はその日偶然にも、彼のことや彼の家族のことを考えていた。彼はイスラエルの家から、このパリに3日間の滞在。そして彼もまたプロヴァンスに居るはずの私達のことを考えていた。彼は私達が、現在パリに住んでいることは知らない。この約束の無い出会いに、お互いに驚き、大喜びしたことは計り知れない。明朝はイスラエルへ帰るという彼と夕食を共にして、今後もお互いに元気で幸福であるようにと強く望んだ。
不思議な現実に感謝する自分がいる。存在の意味はこういうものなのか。目に見えないものに心が動き、計り知れないものに熱い思いが走る。
(人間の時間と空間)の不思議。時を流れている人の魂。空間を共にする人の亡骸。
生きること、死と向き合うこと、人生を考えること、無意識にあること、人と人の間、時と時の間、空と空の間。
パリのお墓ですれ違った人は、私に神秘を与えて通り過ぎた。
***
「浮浪者の言葉」
パリ、シャンゼリーゼ、買い物や観光客で賑わう素敵な散歩道。
小道に入るとジャルダンパブリック(公園)があり、天気の良い日には、老夫婦や親子連れが日向ぼっこをして寛いでいる。
私は最近この場所をよく歩く。ぼんやり人を見たり、花を見たり。東京に居た頃は目的地まで直行。そして用が済むとさっさと帰宅していた。でも最近は時間をもっと楽しむ為に使いたいと思うようになった。景色を味わったり、人間観察したり結構楽しい。
そしてこの公園で気になり始めた人がいる。いつも決まった時間に此処へ来る、70歳ぐらいの浮浪者。この言葉はあまり良くない。SDFサン・ドミシル・フィックス(決まった家がない人)とフランスでは表現している。私は、其の人が気になっている。
どうして気になるかと言うと、不自然な感じ。つまり相応しくない。
何故この生活をしているのか理解に苦しむ。きちんと服を着れば、りっぱな紳士になるだろうに。と思わせる風格と顔つき。実に気になる。話しかけたいけれど中々、勇気が出ない。
私が知りたい事は、彼にとって失礼な問になるかも知れない。
(何故貴方は此処に居るのですか? 人生に何が起きたのですか?)こんなぶしつけな質問に彼は答えるはずが無い。そう思い込んでいる私は、この問を言い出せなくて、そのまま彼の横を通り過ぎる。
しかし、気になる。話のきっかけは、どうすればいいだろう? 私は彼を傷つけずに尋ねることができるだろうか? 回答が得られるだろうか? 様々な迷いと疑問が解けないまま、時間をやり過ごしている。
ジャーナリストなら、マイクを向けて
「今(パリに暮らす人々)というテーマでインタビューを取っています。協力して頂けますか? 」なんて、あっさり聞いたりするのだろう。私は考えすぎる。もっと知りたい事を簡単に知る方法があるのだと思うとじれったい。
しかし私は、自分の求めるもの。つまり、彼の回答に真実と、そして深い内容が欲しい。彼から本当の人生について話が聞きたい。
2週間が過ぎた。私は未だ何も言えず、ただ彼の様子が気になり、買い物をするたびに前を通ってみる、新聞を読むふりをして、彼のそばに数分いたりする。そんなことを繰り返している自分が、何故か妙な気がしてきた。今日は天気もいい。もう忘れよう、聞き出せない自分にがっかりするのは、もう止めよう。無理に話をして、彼に不愉快な思いをさせるくらいなら、何もしない方が良いから。
そんな思いで別の道へ散歩に出かけた。気分転換のつもりで。ところが頭の中は彼のことばかり考えている。(彼の人生に何があったのだろう? )気になるということは結構、厄介なこと。家に帰って美味しい紅茶でも飲もう。そう思い私は家の方角に向けてフルーツ店の角を曲がると、突然、彼が立っていた。
2
私は思わず
「あっ」と声を上げていた。彼はゴミ箱に手をつっこんだまま、
「やあ」と言った。私は後ろに彼の知り合いでもいるのか? と振り返ったが、それらしき人物はいない。彼は私を見て
「マダム、いつも私を見ていたでしょう?」始めて聞く彼の声。張りがありスピーチに慣れた説得力のある深みのある声。
不思議な感じがする。諦めた途端に違う道で彼にばったり会い、彼から声をかけてくれるとは。それに、彼は私の顔を覚えてくれたのだ。話もしていないのに。何日も彼の前を気にしながら通ったから、何か通じたのかも知れない。
「こんにちは。」私の声が少し裏返っている。私は驚きと緊張で変な声になっている。
しかし、この機会を逃さないように、私は思い切って尋ねることにした。
「私は、何故か貴方のことが気になるのです。」と正直に話し始めた。
彼は少し笑ったような気がしたが、目はしっかりと私という人間の中を探っている。この鋭い眼差しは、ただ者ではない。人間の何かを知り抜いた目。この才能があって何故、今このような生活をしているのだろう? 私は益々彼に引き込まれていく。
3
人間の何かを知りぬいた目。
「私、貴方と少し、お話がしたいわ。もし、よろしければ。」と小さな声で言う私に、彼は笑った。そしてやさしい眼差しを向け、
「何故、私と話がしたいのかね?」彼からは私が想像していた質問が返って来た。私は頭の中で用意していた言葉を全て失っていた。彼の堂々とした物怖じしない貫禄に、何も言えないまま数秒が過ぎた。すると、
「ああ、いいよ。時間ならたっぷりあるさ。」と彼は微笑んでいる。良かった。受け入れてくれたようだ。
「私、貴方がどうしてこの場所に、このようにいるのか、少し不思議な気がするの。」と素直に思ったままを告げた。
「沢山の浮浪者がいるじゃないか。皆にも同じ事を聞くのかね?」
「いいえ。ただ、気になったものですから。」
「マダム。こんなことをしていては危険だよ。」
「危険だと感じたら帰ります。」
彼は空を見上げ、心から笑った。
ダイナミックな笑いだった。人生を謳歌しているような。
「貴方の人生は?」
私は小さな声で、そして一番知りたかった事を聞いた。
「僕の人生か、そうだな。なんだろう?」
彼は又、空を見上げ、横切った鳥の行くのを眺めていた。
彼の心は果てしなく広い。
この地球の外側を見ているような、そんな眼差しだった。
「貴方は恋をしたことは?」私の何気ない質問に、彼は一瞬暗い表情をして、すぐに息を吸い込み、何かから逃れた呼吸をした。
たぶんこの深い呼吸は過去に本物の恋をした証。遠い走馬灯の中にいて思わず現実に生き返ったような重い呼吸だった。これが彼の人間の何かを作り上げている。
私は深い部分に触れた気がした。今日はここまでにした方がいいかも知れない。私は知らず知らずに一緒に歩き始め、いつもの彼が座るベンチに並んで腰掛けていた。
「君に」彼は私に言った。
「僕の秘密、観たかったら、かまわないよ。」そう言うと、クシャクシャになったコートのポケットから1枚の紙切れを出した。
そこにはパリ郊外の住所が書かれていた。それは高級住宅地。特に素敵な大きな家が並ぶ有名な場所だった。
4
「これは?」私は、彼から渡された紙、豪邸が並ぶ有名な場所が書かれたその紙を持ったまま尋ねた。彼はしばらく何も言わず、足のそばを通っているアリを眺めている。そして、しばらくすると
「私の家だよ。」ポツンと呟くように言った。
「家には帰らないのですか?」私の質問に、彼はただ無言で深く息を吸い込んだ。彼の重い空気が通り過ぎるのを、私は静かに待った。
「貴方は不思議だと思うだろうね。私には家があるのに、こんな格好をしている、浮浪者だ。だがね、貴方は人生に何を求める?」
私は、何を求める?
彼の質問に私は答えることができない。(ただ小さな願いの積み重ね。)そんなことを思いながら、答えを持たない自分が少し恥ずかしかった。彼はその答えを知っているようで。
「判らない。なんだろう? 人生に何を求めているのだろう?」私は自信がないままつぶやいた。
「それが判れば人生が終わる頃だろうね。きっと。僕はね、志を高く頑張ってきた。色々な仕事もした。会社も創った。家族もいる。孫もできた。社員もいる。しかしね、ある日突然、自由ってやつに魅力を感じてしまったのさ。私も犬や猫と同じ動物なんだとね。それだけのことさ。」
そして大きな息をついて
「家を持てば家に縛られる。会社を持てば会社に、家族を持てば家族に縛られてしまうだろ? 」そう言って彼は私の反応を待ったが、私には彼の意味することが未だ判らない。彼は私の共鳴反応を求めていたのかも知れない。しばらくして又彼は大きく息をして、けだるそうに言った。
「自由ってなんだ? 僕はね、何からも開放されることだと感じている。その答えが何処にあるのか、探している最中さ。そう、それだけのことさ。」
***
「カミーユ・クローデル」
日も高くめずらしく乾燥した空気が立ち込めたパリ。私はロダン美術館を訪れた。芸術に触れるのは脳が喜ぶ感じがする。作品によっては何も伝わってこない物もある。しばらく館内を歩く。全てを見る必要は無い。惹かれるものに出会う為に私はここに来たのだから。
何気なく振り向いた所に、私を釘付けにした物があった。
ロダンの力作。カミーユ・クローデルをモデルに造られた裸体女性像。
私は思わず声をあげてしまいそうだった。喉の奥でキュっと言う音がした。あまりに激しく、そして狂おしい愛情を感じて立ち尽くした。
ロダンとカミーユの恋。激しい恋とジェラシーと芸術との間でぶつかり合った男と女。その状況がこの時代を超えた作品から炎のように燃え盛る。カミーユの背中の線と丸いお尻の線が、ありありと体温を放っている。ロダンが体を撫でた感触すら伝わってくる。
「まだ愛している。」と囁いている。立っていることに耐えられなくなるほど激しく狂おしい。こんな愛が地球上に存在している。何年も眠ることなく。
熱く切なく限りなく大きな愛。ありふれた人生では人間が壊されてしまう。人生の そ と が わ を生きなければ、こんな激しい恋に出会うことはないだろう。
誰にも理解できない無限の愛の大きさに押しつぶされ、人生を放棄してしまいそうな狂おしさ。
私は立ち尽くしたまま、どれほどの時間をさまよったのだろう?
2
私の魂は時代を超え、カミーユの体に入っていった。寒い冬だった、
暖炉に薪をくべて部屋を暖めているロダン。後ろで私はロダンを見つめる。私は他の研究生のように彼を先生として観たことが無い。ただ私の中にある芸術の力に突き動かされロダンに会った。むしろ私を世に出す人として必要性を感じたのかも知れない。
時が熟したように彼は芸術を自分の思うままに操り、世界を自分のものにしている。人生の全てをかけた情熱に魘されるような人。私はこの激しさに負けないほどの疼きを持っている。私の人生もこうあるべきだと強く感じていた。そして時が熟すように私はロダンに会った。会うべくして会った、宇宙のリズムで。
私を興奮させたこの人を独り占めしたい願望と、芸術家としてぶつかり合う存在として、私と親子ほど年が違うこのロダンとの関係をつないだ。ロダンにとって私は無くてはならない存在になる。私が居なければ彼の芸術も尽きてしまう。ロダンの未来をそう描いたのは無意識だろうか。
私はカミーユ・クローデル。ロダンが一番恐れる芸術家。そして一番大切な女。この人生をどちらが楽しむか、人生を賭けてみたい。激しい感情に突き動かされ後に引けない。行くところまで行くしかない。
そしてある日、私はロダンに反抗心とライバル意識を持って、いつものアトリエに現れた。そして其の日は私自身であった。とても強く存在している魂があった。
彼は別室で裸体を観察している。私と他生徒や研究家達は、それぞれロダンの指示に従ってアトリエを動き回っている。私の反発はピークに達した。
(何故、ロダンのロボットのように、彼の指示で動かなければならないの?私は一人の芸術家。ふつふつと湧いてくるアイデアを抑えている私には、我慢ならないこと。いつ私の作品が私のリズムで吐き出されるの?)
心の中は熱が充満し、今にも爆発しそうだった。
ロダンが裸体の女性を描きながら、人形のように操り、自由に形を変えている。私はもう我慢ならなかった。(もう沢山! 私は私として自分の芸術を吐き出す場所を求めている。ここでは皆、ロダンの奴隷でしかない。)そう強く意識した時、ロダンが私を見ていた。
あれから、何かに取り付かれたように私達は接近していった。男と女として、そして芸術家ともう一人の芸術家として。
今、私はロダンの後ろに裸で寛いでいる。ロダンのアトリエに2人で閉じこもり、ひらめいたもの全てを作品に吐き出し、芸術家として生まれたことを心の底から喜んでいる。激しい願望は全て作品に注ぎ、命が枯れるまで堪能する。ロダンはすでに私の虜。
私はふざけてポーズを取る。ロダンはしばらく見つめていたが、不意にコンテを探し出し夢中に書き始めた。
私はロダンの好きなポーズを空気で受け止めることができる。彼が興奮すればするほど、もっと欲しいポーズが創り出せる。あと少しで完成を見計らうと、私は簡単に壊してしまいたくなる。
(じっとして)とロダンは目で嘆願する。(嫌だ)と私は体で答える。
言葉など要らない。目とコンテの動きと呼吸で解る。
(ロダン、もう貴方は私の自由よ)と私は表現する。耐えられなくなったロダンは私を抱きしめた。
私に夢中になり狂おしく求める、若いギャルソンのように。私は彼が描いたデッサンを取り、彼に投げつけた。彼は怒りと愛が混乱した険しい顔になった。おかしかった。とてもこっけいだった。
彼は又、コンテを取り描き始める。私がポーズを次々に変えても、お構い無しに何枚も描き続ける。止まらない。止めることができない。彼は私を追いかけ、さらにアトリエ中を転げまわり描き狂っている。
芸術の嵐。激しい感情のブレーキが利かない、心の渦に2人は入った。そして抱き合った。年齢など気にしていない。これから世の中に出て行く素晴らしい作品が次々に現れ、二人をある特別な世界へと導くことを、強く予感した瞬間だった。
例え私達の存在が何世紀離れていようが、私はロダンを追いかけた。
今こうして同じ空気を吸っている。同じ場所に存在している。年齢など何の隔たりにもならない。共有すること、今を一緒に生きること。
私はロダンと在る。ロダンは私が必要になる。これからは2人でひとつの作品を創ろう。私のアイデアで永遠の芸術を残そう。この愛は気が狂うほどの大きな愛だから。何も恐れることは無い。宇宙の中の全てのリズムが私達を結びつけ、力を与え芸術の中心へと運ぶのだから。
私は今、ロダンと生きている永遠の芸術の世界に。カミーユ・クローデル。
3
気が付くと館内は人の気配が無くなっていた。私は急いで階段を駆け下り、外へ出た。ドアを閉める係りの人は微笑んで
「素敵な夜を、マダム。」と言った。
カミーユの最後は精神病院での長い暮らし。其の人生はロダンへの激しいジェラシーと愛に絡まった証。燃え尽きた女の最後の姿がそこにあった。弟はポール・クローデル。詩人でもあり、劇作家としても活躍した。日本におけるフランス大使館の仕事もこなす人物だった。その弟によってカミーユは、精神の究極の魔界から病院へと移動することになる。
フランスには運河を流れる舟が観光として親しまれている。パリのそれは幾つものダムで水位をコントロールして船は行きかう。時には跳ね橋、又ある場所では車用の道路橋を回転させる。その昔
「パリの人々に役に立つことは何だろう? 」
「水を与えて下さい。」
これはナポレオン1世とその相談役の会話。それ以来パリには水の文化が続く。その運河の水は8年に1度入れ替えられる。水はあらゆる神秘を隠し持ち、時に物語る。運河の底に姿を現すピストル、現金が詰まったスーツケース、そしてカミーユクローデルの作品もこの運河から発見された。サンマルタン運河が語るカミーユの神秘。
***
「人間の味・企み」
セーヌ川のほとりを散歩して、ふと今の時代を思った。
いつものように流れる川。セーヌは様々な人を見て、様々な歴史を知っている。
私は今、インターネットが無いと生きていけない生活をしている。
セーヌは今のスピードのある時代を、どう感じるのだろうか?
私はメトロ:サンミッシェル駅で降りた。今日はカフェで待ち合わせがある。
パリの婦人雑誌のジャーナリスト、活発で気さくな彼女の性格のお陰で、慌しさも笑いに変えることができる。楽しい仕事仲間。
彼女はフランス人には珍しく時間にぴったり現れる。
今日も新聞に視線をなげながら、指にタバコを挟んだままコーヒーカップを持って、シャンゼリゼのカフェテラスに腰掛けている。彼女の前を闊歩するおしゃれなマドモアゼル達に、視線を這わせることも忘れていない。
流行を肌で感じ、すでにフィーリングを捕らえ、明日のファッションジャーナルのネタは彼女の頭の中には、出来上がっていることだろう。
「ボンジュー、サバ?」 私の声に彼女は椅子から立ち上がり、親しみを込めて両頬にキス。
「おもしろい情報ある?」 と彼女。
「そうね、日本のメールマガジンで気になるのが2_3」
私は紹介しようと思っているが、もうひとつ踏み込めないところがある。
それは今私が注目している情報企業家のひとり、話口調で書く彼の書き方に個性があり、会話をしているような親しみを感じる。だから私は筆者の性格を知っているような錯覚に陥っている。そんな自分が気になる。
業界に紹介する時は、私を通じて知っていることが情報として流れる。
紹介したい彼は、誠実、自分に厳しい、勤勉、几帳面、それでいて気さくな言葉を選ぶ。
性格は彼の書き方で伝わってくる。しかし、なぜ踏み込めないか?
人間は完全ではない。人間の味がもう少し欲しい。彼はお酒を飲むだろうか?
どんな時に泣くだろうか? どんな言葉に感激するだろうか? どんな状態で怒りを覚えるだろうか?
私の中で彼の存在が創りあげられている。もっと人間的生身の体温のある人物として紹介できたら、どんなに素敵だろうか。(お会いしたいのです。パリまで来てください。)とも言いにくいし、では、日本へ行って取材をと言えることでもない。この人をどんな風に紹介したら、人間的な魅力をアピールできるだろう。
私は友人であるこのジャーナリストに未だ紹介しないまま、世間話をしている。
ドカーンと彼女の喉の奥まで見えるような笑いと情熱を爆発させようと、私は企んでいる。人間の面白さは最高の魅力になると信じている。完璧な人間には心が動かないのは私だけだろうか?
今日も雑談だけにしてセーヌの帰り道、新しい日本のネタをどのように持っていくか? パズルを組み立て始めた。未だ外に出さないエネルギーは、私の歩調を早くし、大股でリズムよく闊歩し始めている。
2月のパリ、セーヌ川のほとり、肌寒さも心地よく感じるのは、私の中の何かが燃えているから、今日の私は、とてつもなく熱い。
近付く人は火傷しないように気をつけて!
***
「不思議なメール」
奇妙な書き出しでメールが届いた。
「パトリス、君はこのパーティーに参加するかい? 」
僕の名を知っている誰か、僕はそのメール発信人を知らない。多分いたずらか、それとも送信間違いだろうと思った。
翌日も僕の返事を待っている。という内容のメールが届いた。
僕はこの人を知らない、しかも馴れなれしく君と書かれている。
僕について何を知っているというのだ。どうしてこんなメールを送るのか? 聞いてみたい気もするが、返信するのも考え物だな。もし変な人だったら。まあ、とにかく、このままにしておこう。
「パトリス、君が来ないんじゃ、始まらないよ。」又、翌日も誘いのメール。だけど発信人はしっかり名乗らないし、見覚えのないメールアドレス。いったい誰だろう?
毎日続くこのメールが気になって勉強も手に付かない。6月はバカロレアの試験があるというのに。いい加減にしてくれよ。僕は一人でコンピューターに向かって怒り始めた。いやなメールだな。気になる。無視しようとすればするほど意識してしまう。
食事中も通学中もこのメールのことを考えてしまう。パーティーってどんな? 場所は? 誰と? いつ? 全てが判ってない。
僕は学校から帰ると一番に、この変なメールが届いているか確認するようになった。この3日間は異常だ。僕は返事もしないで、向こうから一方的に送られるメールに振り回されている。
今日も届いた。
「パトリス、君が返事をしないから、ピエールもカトリーヌも待っているよ。」このメールで、僕はひとつのヒントを掴んだ気がした。僕の友人の名前まで知っている。ということは僕に関係のある人物だということだ。すぐに携帯電話の友人リストからピエールにかけてみた。
「ピエール、今度のパーティーは何処でするの?」
「パトリス、何言ってるの? 僕たちは今、試験のことで頭がいっぱいなんだよ。そんなことは大切な目標が終わってからにしてくれないか!」
友人の反応は、変なメールとは関係ないことを証明した。次はカトリーヌに聞いてみた。彼女もピエールと同じ反応だ。しかし、何故、僕の友人の名前まで、こいつは知っているのだろう?
だんだん腹が立ってきた。何処からメールしてる? 誰だ。いったい。僕は頭が変になる前に、確かめるべきだと思うようになった。発信したやつにメールを出してみよう。
カシャカシャ、返信、何から書いたらいいだろう。
「やあ、元気かい? 」変だ。ゴミ箱へ。カシャカシャ
「パーティーは何処? 」変だ。カシャカシャ
「何人集まるの? 」これも変。
「バカヤロウ、ふざけるな!」これはやりすぎ。こんなことばかりしていると、時間が過ぎていって試験勉強もできない。もういい。忘れよう、このままにしよう。
4日目、僕は学校から帰ると真っ先にメールを確認した。ない!
あのメールがない! あいつから毎日来ていた変なメールがない!
どうして来ない? あいつは今、何を考えている? さあ、かかって来い。正体をあばいてやる。早くメールを送れ。どうしたんだ!?
それから毎日、僕はあのメールを待つようになった。いやなことが続いたあげく、それを待っている。妙な話だ。変なやつなのに誰か知りたい。迷惑なメールなのに気になってしかたがない。
いったい僕は、どのパーティーに参加したらいいんだ。
教えてくれ!
***
「かほり」
アーモンドの花が咲く頃、ほのかな風に乗って優しさが舞い込んだ。
薄く柔らかな香り。花びらは桜を思わせる。薄ピンクの可憐な花びら。
私は書斎から離れて、テラスのアマック(ハンモック)に体を埋めた。揺れながら青い空を見つめると、なおいっそう香りが心にしみてくる。
日本の梅の季節もこんな感じだった。香りに誘われて何度も行った梅が丘。世田谷の羽根木公園、まだ人も込み合わないうちから、私は午後の公園を独りで散歩した。
香りは幸福を運んでくれる。
書斎で仕事専用の電話が鳴った。
アマックからおり、裸足で書斎に入る。
「アロー、」
「ボンジュー、アコ? 僕だよ。」
コマーシャルディレクターのマークだった。
ファッションショーのプロデュースを手伝って欲しいという。
「OK、喜んで。」
「でもね、今回はちょっといつもとは違うよ。だから、イメージが難しいんだ。それで君に相談したいんだ。インスピレーションを与えて欲しい。」
「どんな、ショーにしたいの?」
「香りのショーだよ。」
「コスチュームの指定は?」
「特にない。ただしブランドを使う場合は、了解を得る必要があるし、協賛、もしくは2重コマーシャルの許可がいるんだ。競合にかかると厄介だからノーブランドでいこうと思う。」
「コステュームじゃなくてもいいのね?」
「どういうこと? まさか、裸でマヌカンを歩かせるの? 僕は嬉しいけど。」
マークの頭の中にショーの様子が徐々に膨らみ始め、エキサイティングしている様子が受話器の熱で解る。
「コスチュームはイメージだけで行きましょうよ。」私は頭に描き出てくるコレクションの様子を語り始めた。
「香りは何を使うの?」
「エスティーローダの新作」
「私の未だ知らない香り?」
「ああ、僕もまだだった。」
「明日の会議で初めて香りを嗅ぐ予定なんだ。来てくれるかい?」
「ええ、もちろん行くわ。」
私達は会議の30分前に、会場前のカフェで待ち合わせることにして電話を切った。
2
テラスに戻ると、やさしい香りが風にのって、私にシエスタを薦めた。
もういちど体をゆったりとアマックに横たえると、うとうととシエスタに入っていった。
霧の中に現れる人影。鈴の音が小さく鳴る。幾人もの美しい長い足が裸足で静かに歩いてくる。その動きに合わせ、ほのかな香りが漂ってくる。顔も体もコスチュームもはっきりとは見えない。女性が歩く。香りが放つ。
同じコロンを使っても、体温とつける場所によって異なった香りがする。
アマックに子犬がじぇれて、私は目を閉じたまま子犬の頭を撫ぜる。私の左手は指先がしっとりと濡れている。子犬が私に甘えて喜んでいる。
シエスタが終わったことを合図に、私は子犬を抱き上げた。
「ありがとう。1シーンできたわ。」
3
カフェに行くと、マークは時間前に来ていた。携帯カメラを街行く人に焦点を合わせ、写真を撮っている。気まぐれな彼の趣味。
私が近付くと今度は私に携帯を向けカシャカシャと撮った。
「高くつくわよ。止めなさい。」
彼は微笑んで、私の頬にキスをした。
「今日の香りの打ち合わせに、マヌカンのキャスティングも来るのかしら?」
「ああ、関係者はほとんど来るはずだよ。どうして?」
「キャスティングの担当と少し話がしたいの。」
「君も出るの?」
「いいえ、私はもうとっくに引退したのよ。そうじゃなくって。香りが放つことを重視したコレクションにするのだから、マヌカンの体温と体臭も重要ポイントになるの。」
「そうか! それで?」
マークはピンときたようで、まだ少し解さない点もあるような曖昧な笑顔でカフェを飲みほした。私はおしゃべりし続けるマークの腕を取って、会場へと向かった。
入り口は関係者の名前確認と、名前が書かれたプラスティックのバッジを付ける人達で込み合っていた。
私は人ごみが落ち着くまで、マークと窓際の誰もいないフロアーまで歩いた。
「会場のステージの配置とクライアント席との関係も見たいわ。」
「そうだね、ウオーキングのリハもしなくちゃ。」
「それとコロンを付ける場所を考えたいの。」
色々な打ち合わせがあった。この2週間は毎日が電話と現場、空想の世界と現実。行ったり来たり。慌しくそして活気的な私の好きな時間が過ぎていった。
ステージはI型 とO型を組み合わせた。
本番を迎える当日、私とマークは会場へ早めに入り、最終チェックをした。
4
クライアントが次々に入ってくる。全指定席でマスコミ席を前列中心に、その周りに重要クライアント、女優達、各会社の名前を書いたカードを置いてある。
カードにも新作の香りを染み込ませてある。
開演の合図に証明コントロールで会場は薄いブルーに変わる。
第一ステージ 「オードトワレ・魔力」
ステージにはうっすらと霧が立ち込める。霧の中にほんのりと忍ばせたエスティーローダの新作、小さな鈴の音が始まる。ゆっくりと歩き始めるマヌカン達。コステュームは1枚の布。頭からすっぽりとかけ、素材はオーガンジー、透けるかげろうのような素材。顔も表情もはっきりとは解らない。裸足で静かに歩く。
最初はI型にまっすぐ進み折り返しでUターンして戻る。オーガンジーの色は葵、濃い深みのあるブルー。布が揺れる度に「オードトワレ・魔力」
がクライアント席に零れ落ちる。
クライアント席からため息が漏れた。
第2ステージ
小鳥の声と川のせせらぎの音と共に、O型ステージをオーガンジーを纏ったマヌカン達がハイヒールを履いて、さっそうと歩く。色は自然色の草の緑、雲の白、空の青、花のピンク、黄色、紫、全て淡くやさしい色。
オーガンジーの下は少し濃い同色のランジェリー。
マヌカン達はコロンを足首と膝の裏側につけた。歩く度に今度はしっかりと確かな香りが立つ。
延々と続けていたいと思うほど、クライアントからは、うっとりとしたため息を受け取った。
第3ステージ
全ての証明を消し、真っ暗な闇。無音。
1分経過して、心臓の鼓動をゆっくり小さく流す。
ステージの奥中心に小さな灯りが灯る。それは徐々に大きくなり、地球の形が浮かび上がる。その後ろから大きな太陽が輪郭を持って輝き始める。
ステージの各コーナーと2m間隔にしかけておいた、煙の噴水。「オードトワレ・魔力」が会場全体に香りの花を満開にした。テーマソングに選んだ「ヌムトウキッテパ・行かないで」が聞こえてくる。証明の無い会場には、地球とそれを抱くように太陽の光。2m置きにある香りの霧の噴水に静かな青い光だけが浮かび上がる。
クライアントの顔がうっすらと噴水の光に浮かんでいる。
音楽が音量を細め終わりに近ずく、それに合わせゆっくりと自然光が入ってくる。天井が中央から左右に開く。本物の太陽が会場に降り注ぐ。自然と調和した香りの中で幕を閉じた。
会場からは、しばらく呆然とした静けさがあり、徐々に拍手がわき、さらに歓声と割れる様な拍手の渦となった。
5
マークは私を自宅まで送り届けると、打ち上げパーティーも出ないで、放心状態のように帰っていった。
1週間ほどして、留守番電話にメッセージが入っていた。
「メルシー。アコに頼んで良かった。すごいよ。あれからクライアントの契約は毎日膨らみ生産が追いつかない、嬉しい悲鳴の連続だとエスティーローダから連絡があった。
打ち上げパーティーを改めてしたいと言っている。場所は何処がいいと思う?
モナコ、それともギリシャの海の上のレストランにしようか? 自家用ヘリで迎えに来るって社長が直接電話をくれたよ。」
***
パリ郊外編
「霧に浮かぶドレープ」
土曜朝、熱いカフェオレを手に窓際に立つと、庭一面に霧がかかっている。うっすらと見える木々、白く深い雲の中、風が無い、空気の流れと時の流れを止めたかのような不思議な景色。(この中へ入っておいで)と誰かが囁く。それはもうひとりの私。
この霧は心を清める美しい情景を私にくれた。近くの教会のツタがぼんやりと緑に浮かび教会の茶色い壁に、根を這わせた異次元の生き物のように、幻想的な夢の国へと私を誘う。私はすぐにコートを羽織りマフラーを持って、庭へつながる石の回り階段を降り庭へと向かった。白く深くどこまでも白い。しっとりとした湿度を感じながら、私は霧の中をゆっくり歩いた。過去のこと、家族のこと、現在、未来、様々な人生のぼんやりとした思いが、万華鏡を通した人生模様となって重なっては消えていく。
朝夕の気温差が激しいパリ郊外、時折自然がこのような霧の世界をプレゼントしてくれる。
水滴を含んでキラキラと輝く白い糸。
ドレープのような滑らかな曲線を描いた、そのきゃしゃな糸は
「とうりゃんせ」と歌った。私は頭を低くして、その糸を壊さないようにくぐった。横から見ても下から覗いても美しい姿。この霧が創り出した芸術。その糸は静かに輝いている。
白い世界を先へ進むと、小鳥が1羽アーモンドの木に止まっている。鳴くこともなく、やはり時間が止まったように静かに羽を閉じている。小鳥を休ませているアーモンドの花は、桜を思わせる。そして私を日本の景色へと誘う。
幼い頃に散歩した祖母の庭、私を呼ぶ祖母の声、弟の小さな靴の音、やさしい微笑み、私は祖母の胸に走っていって飛び込んだ。後からついて来た弟は、一生懸命追いつこうとして転ぶ。私は弟を抱き起こし足についた土を払う。祖母はハンカチを口に含み湿らせて、弟の膝をやさしくふき取り背中におぶる。弟は親指をくわえ、涙の線をほっぺにつけたまま祖母の背中で眠る。
時間を止めたこの霧は、私の人生の最も嬉しい季節、大きな祖母の愛に包まれていた頃の思い出をプレゼントしてくれた。
「ありがとう。」私に素晴らしい時を与えてくれた。
私は胸深くこの美しい空気をいっぱい吸い込んだ。吐く息は白く霧にまぎれる。
ひんやりとした空気が心地良い。石畳の帰り道、石の間に苔が張り付いているのに気が付いた。それは霧によってモザイク模様の、幻想的な世界を創り出していた。これらの全てをゆっくり味わいながら歩く。白く輝く糸の下をくぐって。
霧の中、糸の持ち主はどこかに姿をかくしているらしい。その輝きときゃしゃな愛すべき白い糸の正体は く も の 糸。
今日は霧と共に、私の心を捕えた美しい糸。
***
「貴族のひみつ」
1850年、ティータイムを庭にある大きな木の下で過ごす。
春の風は私に花の香りと共に、けだるい幸福を与えてくれる。
夫は馬を走らせ、今朝早く隣村まで出かけた。
最近の私たちは、其々の人生を考えている。結婚して20年。様々な出来事が歴史書のように作られてきた。写真立ての中に微笑んで並ぶ写真や数々のアルバム。
このひとつの人生に幸福と疲れが入り混じり、全てを変えてみたくなる。それは私の癖のような危険な発想。安定期に入ると新たな道を探りたくなる。
門を開ける鈍い音。その音は週に2回やってくる庭を任せた男が、門を開ける時の独特な音。遠慮がちでゆっくりと、できれば静かに開けたいと願っている音。彼は独身でいつも犬を連れて来る。門の横に犬を待たせキスをする。
静かな男であまり笑ったり話したりすることもなく、決まった時間に来て、まじめに働いている。体格は背筋がピーンと伸びて胸が広く、時折汗を拭くときにシャツから胸毛が見える。そして足が長くゆっくり歩く。
私はこの男の後姿が好き。
ティーカップを置く音で、彼は私がこの庭に居ることを知っている。しかし挨拶もしない。恥ずかしさがそうさせているように、私を見ることもできずにいる。
彼は庭の手入れ用の用具を持ち私の横を通る。すれ違う時に彼の心臓の音が聞こえるような、湿った鼓動を感じる。それでも彼は表情を変えない。かたくなになっている。私が見ていることも彼は気が付いているはず。そんな彼を見ているうちに、いたずらな気持ちが湧いてきた。私はティーカップを足元に置き、ゆっくりと立ち上がり、庭を眺めるように歩く。彼に背を向け彼の視線をもて遊ぶように。
私の背中が、彼の熱い視線に燃えている。必ず彼は私を見ている。庭師用の小屋の前に窓がある。私は鏡代わりに彼の様子を覗いてみる。やはり彼は立ったまま、私を抱擁するように見つめている。私は胸騒ぎと混乱と悪戯な心に、自分自身が手におえなくなっている。
小屋の入り口のほこりを枝で払い、私は始めて何年も外壁だけ見ていた、この小屋へ入った。
彼は近くまで来て中の様子を伺っている。小屋の中では私の鼓動が、外では彼の鼓動が、お互いの心臓の音が聞こえる。私は小屋の隅にある小さなベットに腰かけ、自然の宇宙のリズムに合わせるように深く呼吸する。
彼は小屋の入り口で戸惑い、しかし全神経を集中させ、私の心臓の音を受け止めようと耳を澄ませている。そしてゆっくり小屋の入り口に立ち、頭を少し低くして入って来る。長身で色白でよく見ると、まだ少年のような顔立ち。
まるで生き物が感じる単なる性に呼び出されたような表情。今の彼には不安や恥ずかしさはなくなっている。
中腰になり私に近付く。そして黙ったまま私の足を取り、靴を外し包み込む。その大きな手に包まれた私の足が、小さな小鳥のようになる。彼はかまわず柔らかく包み続ける。私はため息のように大きく息をした。普通の呼吸では興奮が隠し切れなくなり、胸が高鳴り苦しい。
彼の静かな、そして堂々とした態度に、私は圧倒されている。
このままここに。
この小屋の中に。
私はアンニュイの中へ溶けていく。
貴族の秘密が語りかける危険なこの庭。
***
「自分を解放した女」
パリ郊外にあるシャトー。先祖代々から伝わるこのシャトーを守る為に、ベルギーからの財産家のプロポーズを受けることになった。まじめでしっかり者と噂されている男。やがて両家族から祝福され盛大な結婚式となった。
その晩から、私たちは馬車で2週間の旅に出た。景色に胸ときめかせ食事に満足する旅。しかし夜は私が想像していた夫婦の生活はなかった。自然に訪れる何かを期待していた。まだ男性を知らない私は実際の営みとは、男性とは、夫婦関係とは、それらに無知であった。
自然に訪れる何か、前世からの約束、恋の予感、女性として生まれた証、その全てが素晴らしい出来事になると思っていた。しかし、それはこの旅の間、何も起こることなく、ただ表面的な平和な形が繰り広げられた。まるで教科書に載るようなお伽話の生活。
夫は女性を知っているだろうか? それとも特別な何かに囚われているのだろうか? 親からの命令、恋人からの願い、自らの戒め、宗教的な性否定? 何故かは判らない。私たちは本当の夫婦ではないまま数日が続いている。
旅も終わり日常が始まっても、それは変わることはなかった。
シャトーの生活は私の娘時代とは、まったく違ったものになってしまった。
夢を追いかけ青春を謳歌した我が家。夫が来てから私は自由を失った小鳥のように小さくなり、夢も閉じ込めたままになっている。
今日は両親が旅行に出発する。その間は私たち夫婦と数人のお世話係りが残るこのシャトー。私は最後の期待を持ってその夜を迎えた。早めに風呂を済ませ、気に入りのガウンに身を包み、髪をとかし、香水を足首とうなじに付けた。
夫は隣の部屋で本を読んでいる。時折ページをめくる音が聞こえる。もうすぐ私のそばに来てくれる。そう信じてベットに横たわる。夫が部屋に入る時、私を見て(美しい)と思って欲しい。しかし隣の部屋からは、延々とページをめくる音が続く。待つことはとてもつらい。知らない間に私は深い眠りについてしまった。
深夜、不思議な夢に目がさめ、胸の高鳴りを収める為に時間をやり過ごしていると、下の部屋で物音がする。何かを削るような音。肉を切るような、単調で定期的なリズム。
しばらくしても止むことなく続いている。世話人に調べてもらおうと思い、私はガウンを手に階段をゆっくりと静かに下りて行った。その音は世話人の部屋から聞こえてくる。
こんな深夜まで仕事をしているのだろうか? それにしても何をしているのだろう? 部屋からうっすらと明かりが漏れている。
私はそっと部屋のドアを開けた。ギーと鈍い音がシャトー内に響いて、私に警告を発しているような恐ろしい音だった。
薄明かりの中、何かが動いた。
その方向へろうそくを向けると、世話人のベットには3人の人間。2人の女と、そして、夫。私が始めて見る裸の夫。
2人の女はいつも私の髪を梳かし、風呂の準備をする娘達。
私はあまりの驚きで声すら出ない。
夫と彼女達も何も語らず、ただ驚いた目で私を見つめる。
私はここに居てはいけない。存在してはいけない。
そう繰り返し思うだけで足が自由に動かない。(帰らなければ私の部屋へ戻らなければ、この場所は私の居場所ではないのだから)やっとの思いで宙を舞うように部屋に戻ると、体中が震えだし止める事ができなかった。
どのように自分の部屋へたどり着いたのか覚えていない程、私は自分を見失っていた。何日も空をさまよった気がする。長いとてつもなく長い暗いトンネルを抜けたような。
それから、数日が過ぎ、私は自分の生まれたこのシャトーを出た。両親にも夫にも、誰にも何も告げず。ひとりで別の世界を求めて歩き始める為に。
何を説明するのか、何を求めるのか、何を肯定し何を否定するのか、私には判らない。
確かなことは 私は私を開放した、こと。
苦しみから、不可解から、矛盾から、私は私自信を解放しなければならなかった。
私が生まれた意味をこれから探す為に、存在の意味を知る為に。
*** 日本篇 ***
明治
「小枝の羊羹」
明治時代初期の頃、私は男性として生きていた。
ある村に入った所、後方より愛らしい若いお嬢さん方の話し声。ふと足を止め、振り向きたい気持ちをおさえ、しばらくたたずんでおりました。お嬢さん方は、なにやら楽しそうに私の横を通り過ぎ、道をへだてた小さな茶みせに入っていかれました。
着物の裾のはねかえりも、まだ気にならないお年頃、どうやらお稽古の帰り。それとなく私もつられるように、その茶みせに入りますと。あのお嬢さん方は、奥のこじんまりした所に、いつも決まっているように、それぞれにお掛けになっています。楽しそうにお話も、はずんでいらっしゃる。
私はそこから近くなく、遠くなく、距離をおきまして、腰掛けることに致しました。さりげなくお嬢さん方の様子を拝見しながら、旅の疲れを取っておりました。
ぼう然とただ時間にまかせたこの空気に、何かしら嬉しさがございます。この地に着いてからは、小料理屋でお酒でも頂こうかと考えているところでしたので、いつもとは異なるこの空気が、私にとりまして新鮮でございました。しばし時を忘れております。
ふとお嬢さん方の不思議な行動に、いつものぼんやりも覚めまして、その様子を覗いますと。おかけになりました所には、形の良い小枝がございまして、それに小さな、いかにも品の良い物が、いくつか美しく結ばれておりました。お嬢さん方は其々に、慣れた仕草でその結びをといて、愛らしいお口に運んでは、クスクスと笑い、楽しそうに召し上がっておいででした。
私の周りには、そのような飾り物はございませんでしたので、気になっておりました。番頭さんの落ち着いた様子からは、きっと頂いてもよろしい物なのでございましょう。
但し書きも、どうぞめしあがれ、との言葉もございません。お嬢さん方はきっと、お小さい頃から、この茶みせに足を運んでは、知らず知らずに見つけた無言の許しと歓迎を、自然にお受けになっているのでございましょう。
お店の配慮も粋なことをなさると感心しておりますと、お嬢さん方は楽しげにお話しながら、お勘定をしてお帰りになってしまいました。私はこの空気にすっかり溶け込んでしまいまして、しばらくぼんやりを続けたくなりました。
旅をしながら書き物をしておりますと、このぼんやりできる時間が私にとりましては、大変に貴重な空間になるのでございます。余韻とおだやかな空気の内に、たたずむ機会を与えて下さった、先ほどのお嬢さん方に感謝しながら、空席になりました所を眺めておりました。いかほどの時間が過ぎたことでございましょう。
私の前には暖かなお茶が、用意されておりました。奥の人がいつの間にか気を利かせて、静かに置いて下さったのでしょう。礼も言わず私は幾分恥ずかしさを覚えましたが、ここの方ならばお許し下さるだろうと、誰にとも無く軽く会釈し、お茶を頂きました。
先ほどの空席には、あれからどなたもお掛けにならず、番頭さんも何処におられるのか、人の気配がございません。
空席に飾られている小枝は、風が通りますたびに静かに、そよそよと吹かれて誠に目にも心地良いものでございます。その小枝がちょうど程よい形に頭を下げるような姿になって、その物が結ばれているのでございます。
あのようなのは今までに見たことがございません。どこで買い求めたのかしら、どのような方がお考えになり、お作りになられたのかしら等と気になります。又その風景が、今にも物語りそうな様子で、小枝のささやきになるのでございます。
さて、と席を立ちまして、お勘定をお頼みしようかと思いますと、いつのまにか先ほどの番頭さんが、どこからともなく現れ頭を下げ、
「ありがとうございました。」と丁寧に挨拶して下さいました。思えば不要な時には姿を消す。用ができれば現れる。意思が通じる心地よさがあります。これはとても、お話しやすい方だと思いまして。先ほどから気になっておりましたことを遠慮なく、お尋ねすることに致しました。
「ごちそうさまでございました。お蔭様で旅の疲れも取れました。もしよろしければ、少々伺ってもよろしゅうございますか? 」
番頭さんは手を前に合わせたまま、頭を下げ了解を下さったので、私は続けました。
「先ほど愛らしいお嬢さん方が、お掛けになっていらっしゃいました。あちらのお席に、風に揺れる、何とも風流な飾り物が、結んでございますね。あれは何でございますか? どちらで求めることができましょうか? 」
私の話す間、やさしく頷きながら聞いておいでになり、親切に、
「あれは羊羹でございます。」とおっしゃる。感心している私の様子に嬉しそうに続けて、
「枝を曲げすぎず、伸びすぎず、また折れません程の、ほど良い羊羹でございまして。重くなりました頃には、先ほどのようにお嬢さん方がお召し上がりになりますので、自然に具合がよろしいのでございます。もしご入用でございましたら、ちょうど使いがございますので、その羊羹を作っておりますお宅まで、ご案内いたしましょう。この近くでございますので、お客様もお疲れにならない距離でございます。」とお誘い頂きました。
番頭さんのご親切に恐縮いたしましたが、なんせ興味が沸きまして、もはや知らないままでは、いられなくなりました私は、
「ごついでならばよろしいが、番頭さんもお忙しいことでございましょう。他にもあのような姿の良い羊羹がございましたら、私ひとりでも旅のついでに立ち寄ります。」と申しますと、
「この羊羹は他では手に入りません。」とのこと、益々私の興味は大きくなりまして、
「ではご案内い頂きますように。」と、感謝をこめて申しました。
ちょうど近くまでのごついでならばと、一緒に足を合わせておりましたところ。
番頭さんは、
「ここらで私は。」とお別れの言葉をおかけになった。続けて、
「ここからはお客様お一人でも、簡単でございますので。」と、道を2つに分かれることとなりました。番頭さんは振り返り、
「この先は真っ直ぐ